研究プロジェクトの紹介

 紛争や対立等集団を巡る問題は現代社会共通の課題です。学問において、20世紀中葉にエスニシティ研究という領域が現れました。今この領域では、民族等は客観的な文化要素に基づくものではなく想像の産物だとする構築主義的なアプローチが主流となっています。このアプローチは、言説分析に傾斜するあまり対象は多様であっても、分析結果は一律になり、研究全体が平板化する傾向があります。研究対象となる人々は果たして同じ様式で集団境界を想像し構築しているのでしょうか。柔軟な集団観という印象のある牧畜社会での調査経験からこの問いに答えるならば、否です。本研究は、牧畜社会を事例に、人間集団同士のエスニックな関係と、人間と自然のエコロジカルな関係とがいかに規定しあっているかを解明することによって、エスニシティ研究の活性化を促しつつ、非西洋的な共存論理を提示することを目指します。

背景

 今日の学問的なエスニシティ研究を方向づけているのは、客観的な文化要素ではなく、主観的な民族意識こそ民族境界を維持し、民族境界の維持によってこそ民族集団が存在する、というノルウェーの文化人類学者フレデリック・バルトの境界理論です[Barth, Fredrik 1969 Ethnic Groups and Boundaries]。彼の理論は汎用性の高いものとして多種多様な社会における民族問題をめぐる研究に引用されてきました。だが、彼の境界理論を生み出したのは西南アジア牧畜社会での調査経験であり、重要だとされる民族境界の維持の仕方や境界そのものをめぐる観念(集団観)の在り方は必ずしも普遍性をもちません。

 その後バルトは、自らの調査対象である牧畜民の事例を中心に境界維持と生業形態との関係を次のように指摘しました。牧畜民的な集団生成は共有された財産や物理的な境界によるのではなく、共に移動することに合意したキャンプ間の社会的結合によるものである。牧畜民の集団観は支配や権力といった社会的領域から生じるものであり、限定された土地という地理空間からではないと。この指摘は、彼の境界理論のアイディアに響きあいます[2000 ‘Boundaries and connections’ In Signifying Identities]。すなわち、境界理論は牧畜社会のエスニシティに関するものだからです。ただ、バルトがその理論構築において国家の存在を看過している点は指摘されるべきです。

 バルトの理論に合致する事例は、牧畜社会を調査する多くの研究者から報告されています。東アフリカを研究する佐川徹は、民族単位は明確な空間的境界で区分されるべきという国民国家的な発想は「定住民中心的な発想」だと近代の集団観の系譜を農耕民の生業的特徴に求めました[佐川2009「東アフリカ牧畜社会における横断的紐帯の持続」]。西南アジアを研究する松井健は「生業のエートス」という表現をもって特定の生業と特定の観念や倫理の関係を理解しようとします[松井2011『西南アジアの砂漠文化』]。これらの指摘の方向性は重要で共有できますが、概念定義の曖昧さもあって事例研究の枠内に留まる傾向があり、理論的な体系化が必要とされています。

 上記の事象は、本研究の代表者がこれまで内陸アジア牧畜社会における現地調査で経験したことでもあります。チベット高原におけるモンゴル族とチベット族は、時に牧草地をめぐって激しい武力紛争を繰り広げ、互いの民族境界は乗り越え不可能のようにみえます。しかし微視的にみるとそれぞれの民族の中には、敵対側部族に所属していた人々が数千人単位で暮らしている事実に気付きます[シンジルト2003]。新疆北部に暮らすモンゴル=キルギスという牧畜民たちは、中国の公定民族の枠組みではキルギス族になりますが、仏教を奉じ近隣のモンゴル部族との間でモンゴル=キルギスという集団的アイデンティティを共有し通婚も頻繁です。モンゴルやキルギスという公定民族は、地域の文脈では融合しあいます。公定民族を無化するのは地域の歴史の中で形成され、今なお生きる集団観なのです[シンジルト2012a]。

 このように、牧畜社会の集団観の特徴は、集団境界が乗り越え可能だという点にあります。この特徴は、人が特定の土地に拘束されず家畜と伴に移動するという彼らの生業形態によって成形されているのです。草原や家畜を自然とみた場合、彼らと彼らを取り巻く自然との関係(エコロジカルなもの)が、彼らと他集団との関係(エスニックなもの)を方向付けていることが分かります。

研究方法

 本研究では、「A 社会文化」、「B 歴史」、「C 政治経済」の3つの側面、6つの点でエスニシティとエコロジーの相関を解き明かします。これらの3つの側面からの研究を担うのは、6名の分担者によって構成される3つの班と、全体を総括する研究代表者です。
下の研究概念図を参照。

研究概念図

【A 社会文化的側面】
(A-1) 今現在、牧畜を営む集団同士の関係の特徴は、その生業的な性格によっていかに規定されているか。彼らが家畜という他者との日々の相互作用の中で獲得した幸福観・死生観等が、彼らが他の人間集団と交渉する際に、どのように参照されているか。(A-2) 今は、半農半牧化あるいは都市化し、元牧畜民となった人々がもつ牧畜民としての意識に基づく様々な社会実践が、その実生活にいかなる影響をもたらしているか。
【B 歴史的側面】
(B-3) 牧畜や元牧畜社会の歴史において生じた生態環境の変動が、人々の生業形態にいかなる変化を促し、生業変化が地域における集団関係の様態にいかなる変容をもたらしたか。(B-4) 牧畜や元牧畜社会における生業の布置は、歴史上に行われた、いかなる集団同士の駆け引きの中で決定されてきたか。
【C 政治経済的側面】
(C-5) 牧畜民がマジョリティとなる国家では、牧畜という生業やそれを基層とする文化が、政治経済的な政策等国の在り方にどのようなインパクトを与えているか。(C-6) 牧畜民がマイノリティとなる国家では、均一の国民を渇望する国民統合、豊かさを追求する経済開発等のイデオロギーやプロジェクトが、牧畜民の実生活をいかに方向づけているか。

研究プロジェクト・メンバー

研究代表者

シンジルト
シンジルト熊本大学, 大学院人文社会科学研究部, 教授
主に、チベット高原やジューンガル盆地など内陸アジアに暮らす、オイラト系の牧畜民たちを対象に調査しています。そこで得られた調査経験を基に、いわば牧畜民的な自然認識や集団観の特徴を抽出すべく、比較研究を行っています。
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研究分担者

波佐間 逸博
波佐間 逸博長崎大学, 多文化社会学部, 准教授
カリモジョン、ドドス、トゥルカナといった東アフリカの牧畜社会で人類学のフィールドワークをおこなっています。(家畜もふくんだ)社会的相互行為論に関心があります。
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田村 うらら
田村 うらら金沢大学, 人間科学系, 准教授
専門は経済人類学、モノ研究。フィールドは、トルコ共和国、アゼルバイジャン共和国です。伝統文化の現代的変容の諸相や、自己利益の最大化に回収されない人と人のやりとりに興味があります。本科研では、現在トルコで遊牧民(ユルック)を自称する人々に焦点を当て、その実態や「ユルックであること」の意味に迫りたいと思います。
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地田 徹朗
地田 徹朗名古屋外国語大学, 世界共生学部, 准教授
専門はソ連史、中央アジア地域研究です。アラル海の縮小にともなう環境破壊の社会的・生態的な影響について重点的に研究していますが、本科研プロジェクトでは、社会主義時代のカザフの牧畜と社会変容についてまで視野を広げて研究をしています。
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井上 岳彦
井上 岳彦大阪教育大学教育学部 特任講師
歴史学。カスピ海北西に暮らすカルムィク人とその周辺の人々の歴史を研究しています。
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上村 明
上村 明東京外国語大学, 大学院総合国際学研究院, 研究員
内陸アジアとくにモンゴル国の牧畜社会における、儀礼、芸能、土地利用について研究しています。本科研では、モンゴル国西部のカザフ人とモンゴル人が混住する地域の土地利用を契機とする両者の協力関係について調べています。
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宮本 万里
宮本 万里慶應義塾大学, 商学部(日吉), 准教授
南アジア地域,特にヒマラヤ地域における牧畜社会の変容を手がかりに,グローバルな環境政治とナショナルな国民形成,デモクラシーと宗教実践との交錯点を捉え,地域社会における環境主義や政治の民主化がもたらす文化的社会的影響を政治人類学的な視点から考察している。
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連絡先
シンジルト [ shinjilt#kumamoto-u.ac.jp ]

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