熊本時代の漱石と自然災害――明治三陸大地震・大津波のこと

明治二九年六月一五日に発生した明治三陸地震とそれに続く明治三陸大津波の大震災は、当時の東北地方に甚大な被害をもたらした明治期最大の自然災害の一つとしてよく知られています。
熊本時代の漱石は、明治二九年の書簡中でこの大津波について言及しています。例えば、当時ドイツ滞在中の大塚保治宛に

〈或は御承知とは存候へども過日三陸地方へ大海嘯が推し寄せ夫は夫は大騒動山の裾へ蒸気船が上って来る高い木の枝に海藻がかゝる杯いふ始末の上人畜の死傷抔は無数と申す位〉
(一八九六年七月二十八日付)

と書き送っています。
また根岸町の正岡子規宛にも〈世間は何となく海嘯以来騒々しきやに被存候〉(同九月二十五日付正岡常規宛)と記しています。さらに、漱石が『龍南会雑誌』(一八九六年一〇月発行 第四九号)に発表した論説「人生」の中でも、明治三陸大津波は〈三陸の海嘯〉として言及されています。そこでは〈濃尾の地震〉と並んで〈人意〉の統制を超えた〈天災〉として位置付けられるとともに、続く記述の中で同様に〈人意〉を超えたものとしての〈人間の行為〉の性格を導き出す発端となっています。「人生」中の〈不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る。海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、剣呑なるかな〉という結末の一節も含めて、この明治期の自然災害は、この評論の論旨の展開に深い影を落としているのです。その意味では、明治三陸地震とそれに続く三陸大津波という同時代の事件は、論説「人生」の論説の示す思考の成立を促した一つの重要な契機であったと考えることも可能ではないでしょうか。

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