小松 裕(Hiroshi KOMATSU


 

◇プロフィール

 

1954年   山形県生まれ

19853  早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学

19854月 熊本大学文学部講師

19884月 熊本大学文学部助教授

199812 熊本大学文学部教授 現在に至る

       博士(文学)

 

◇専攻分野 日本近代史・思想史

 

現在の主要な研究テーマ @田中正造の思想

            A在日朝鮮人の歴史

            B近代日本とジェンダー

 

◇主な仕事

 

@田中正造関係

 『田中正造の近代』現代企画室、2001

 『田中正造 21世紀への思想人』筑摩書房、1995

 『足尾鉱毒事件と熊本』熊本出版文化会館、2004年(編著)

 『田中正造選集』岩波書店、1989年(編集、第4,5巻の「解説」を担当) 

 『亡国への抗論 田中正造未発表書簡集』岩波書店、2000年(共編、「解説」を分担執筆)

 『田中正造文集』第1巻、岩波文庫、2004年(共編)

 『田中正造文集』第2巻、岩波文庫、2005年(共編、「解説」執筆)、など

 

A在日朝鮮人の歴史関係

 

 『「韓国併合」前の在日朝鮮人』明石書店、1994年(共編)

 『史料と分析 「韓国併合」直後の在日朝鮮人・中国人』明石書店、1998年(共編)、など

 

Bその他

 

 「民権運動と社会主義」『日本史講座』第8巻所収、東京大学出版会、2005

 「近代日本のレイシズム―民衆の中国(人)観を例に」『文学部論叢』(熊本大学)第78号、20033

 『日本史のエッセンス』有斐閣、1997年(共著)、など

 

◇田中正造研究の一端の紹介

 

 家も家庭も職も生活も名誉も財産も、何もかも振りすてて、ひたすら目前の苦しんでいる人のために尽くそうとした正造の生き方を、誰もがまねることは不可能である。だが、永六輔が言うように、「正造を追い、正造を越えなければ」と心がけて生きることは必要であろう。〃正造を追う〃とは、正造を語りつぎ、正造が生涯をかけて追求した「問題」が何であったかをきちんと認識することであり、〃正造を越える〃とは、それらの「問題」が達成・克服された社会を樹立するために、私たち一人ひとりが少しずつ力を割きあうことではなかろうか。

 二一世紀の田中正造は、私たち一人ひとりの心の中によみがえらねばならない。

  ―『田中正造 21世紀への思想人』より

 

 二一世紀に入ってからも、人類文明や地球環境の危機がさらに深刻度を増し、悲惨な戦争も世界各地で止むことなくつづいている。私たちが「人間でありつづけること」の意味を否応なしに考えさせられる状況であるが、そのことは同時に、田中正造が生涯をかけて実現をめざした思想的課題が、依然として輝きを失うことなく、私たちの前に課題として横たわっていることを意味する。

 田中正造は、ある意味で、現代的課題を先取りし、その解決を試みた人物であった。

 まず、第一に指摘できるのは、私が「水の思想」と形容している環境倫理思想である。その基本は、自然に対して謙虚であることであった。正造には、「山や川の寿命は万億年の寿命」だが、人間の寿命は「一瞬間」に過ぎないという地球史レベルの確信があった。だから、人は万物の霊長でなくてもよい、「万物の奴隷でもよし、万物の奉公人でもよし」として、人間中心主義的な発想を戒めた。人間は「万事万物の中ニ居る」ものであるから、「万事万物ニ反きそこなわず、元気正しく孤立せざること」が重要であると、自然に対する傲慢さを棄て、自然との調和・共生を理想とした。自然を害して得られる利益は「人造の利益」に過ぎない、「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」というのである。こうした正造の視点からすれば、諫早湾干拓や川辺川ダム建設問題など、「公共事業」を名目に自然を改変し「人造の利益」を追求してやまない日本は、とうてい「文明」国とはいえないであろう。

 正造が追求した「真の文明」とは、他人よりもより多く、よりよいものを所有しようという欲望を否定するところに成立するものでもあった。いわば大量消費文明の否定であり、そこから世界人類を解放させることが正造の願ったことでもあった。これが第二の特徴である。花崎平氏がつとに注目するところであるが、田中正造は、なにものも所有しない、所有しようとしない生き方(「無所有の思想」)を実践することを通じて、「所有」よりも「存在」を優先させる文明を追求していた。だから、正造は、富めるものの権利という性格が強い私的所有権を、小生産者の財産を守るために活用しただけにとどまらず、やがては「弱者の権利」ともいうべき社会的生存権をより重視するようになっていったのである。天が与えた土地の共有も主張していた。

 鉱毒に殺された人を「非命の死者」と表現したように、正造は、「国益」に押しつぶされていった生命に寄り添う視点から、利益中心の近代文明を告発しつづけた。水俣を舞台に物質重視の近代文明の転換と共同性の再生を訴え続けている作家の石牟礼道子氏は、「私の思想上の先生は田中正造です」と公言してはばからない。このように、足尾と水俣を結びつけて考えるとき、田中正造の文明観は、人類文明再生の重要なてがかりになるかもしれないのである。

 第三に、その「平和の思想」も注目に値しよう。正造は、日露戦争の前から非戦論を唱えるようになるが、戦争中から戦後にかけて軍備全廃も主張するようになる。その論理は、戦争に勝利した国だからこそ、世界に先駆け率先して軍備を全廃する義務があるというものであった。敗戦によって軍備の廃絶を決意した戦後日本とは逆の発想であることに注意しなければならない。そして、外交費を増加し、日本の青年が「平和の伝道者」として活躍することに、日本が真に果たすべき国際的役割を見出していったのである。

 田中正造は、明治後期を代表するラディカルな民主主義者でもあった。民主主義の再生のために参考になるのは、国民が絶えず政治家を監督し、一年中憲法を論じ、人権の観点から法律を点検して異議申し立てをしていこうとする姿勢であろう。正造は、「議会ニ憲法論なきハ滅亡国の証跡」とさえいっていた。と同時に、自治の思想家でもあった正造は、「地域自治」に立脚した日本社会の構築を模索していた。人びとの自治能力に対する深い信頼に根ざし、地域の独自性に立脚した個性ある地域自治共同体を基本単位に地方政治を考えていた。

 正造は、町村の主権者は町村の住民であって、政府に町村の運命を決定する権利はないと主張する。そのような自治思想を抱いていた正造が、晩年に、人びとの「相愛心」に裏づけられた「公共心」という新しい社会的結合原理を提示していたことは、これからの地域社会の再生に向けて、大いに参考になるだろう。このような人権と自治思想に基づいた民主主義思想は、官僚専制の中央集権国家を打破してゆく可能性を示している。

 近年、水俣病事件研究では、医学者の果たした役割の検証が進んでいる。しかし、足尾銅山鉱毒事件に関しては、その病像すら科学的に確定していない。人文社会科学的なアプローチがほとんどであり、医学者を含め自然科学者の関心が極端に薄いからである。病像の解明と医学者をはじめとする科学者の果たした役割の検証がぜひとも必要である。政府が設置した鉱毒調査委員会の委員として、足尾銅山を原因とする銅中毒の存在を一貫して否定した医学者入澤達吉の愛弟子が、ハンセン病患者に対する強制隔離・断種政策を強行してきた光田健輔であったという事実は、単なる偶然であろうか。

  ―「現在に生きる田中正造」より(『世界』736号、20052月)

 

正造はいう。「谷中問題結了すとおもふなかれ。正造の命ちあるうちハ復活せねバ止ぬ問題である。谷中亡びても問題ハ生きて働かん」。そのとおり、正造の「谷中問題」は、歿後九十年を過ぎた現在でもなお生きて働いている未決の課題なのである。その意味では、私たちも谷中残留民の末裔なのであり、正造のまなざしに日々さらされているといってもよいだろう。

  ―『田中正造文集』第2巻「解説」より

 

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