序文

<安楽死の概要>                         <世界の安楽死議論の現状>



安楽死の概要

 「安楽死(euthanasia)」は、語源に従えばギリシア語の「よい、正しい(eu)」と「死(thanatos)」から成り、「よき死」、「正しき死」を意味するものである。

 1930年代にアメリカとイギリスにおいて安楽死協会が設立され、今日では多くの先進国で同様の組織が存在する。これらの安楽死協会は、「安楽死」という言葉に、それぞれ異なる解釈をしていて、今日ひとくちに安楽死といっても様々な文脈で用いられる。以下に安楽死の分類とその区別にかんする議論を簡単にまとめる。

まず、患者の要請の有無の観点から、以下の三つの分類がある。

 

自発的安楽死voluntary euthanasia)患者の自発的な要請に基づく安楽死。

非自発的安楽死non- voluntary euthanasia)患者の自発的な要請を欠く安楽死。

反自発的安楽死involuntary euthanasia)患者の意思に反して行われる安楽死。

 

 古代ギリシアでは障害を持つ新生児を死なせる風習があり、またローマ時代には社会的義務を果たせなくなった瀕死者に毒を与え死なせるという決議が市議会でなされていたと言われる。さらに、現代においては1930年代のナチス・ドイツで障害児や精神障害をもつ人に対して安楽死が行われていたのは有名である。以上のような形態の安楽死は、非自発的安楽死、あるいは反自発的安楽死であり、今日ではもはや倫理的にも社会的にも許容されないことは明らかであろう。

 今日、許容の是非をめぐる議論の対象になるのは自発的安楽死のみである。また、自発的安楽死は、本人の任意の意思に基づく任意的安楽死とも呼ばれる。

 たとえ自発的な要請に基づく安楽死であっても、それを許容する危険性を示唆する議論において、しばしば用いられるのは「すべり坂論(slippery slope argument)」である。すべり坂論は一般的に、道徳的な思考や法律において提案されたある変化に反対するために用いられる。安楽死においては、いったん自発的安楽死を認めてしまうと、すべり坂を落ち始め、やがて非自発的安楽死、反自発的安楽死までなしくずしに行われるようになる危険性に訴える。従って、この議論はすべての安楽死を認めないとする現状を最良とする。極端な例に思われるかもしれないが、実際、痴呆症の患者や植物状態の患者、あるいは重度の障害をもって生まれた新生児など、本人の自発的な要請のない場合に、安楽死が行われていたり、裁判で延命治療を打ち切るか否か議論されていたりする。

すべり坂論を訴える安楽死批判者は、本人の要請のないまま、あるいは本人の意思に反して生命が断たれてしまうことを恐れているため、自発的安楽死も行うべきでないとする。しかし、自発的安楽死の実施が因果連鎖的に非自発的、ならびに反自発的安楽死につながるという根拠がないとの批判もある。そして、安楽死を自らの意思で望んでいる患者がいるのも事実である。かつてオランダで合法化される以前、安楽死が患者と医師間で違法に行われていたように、現状放置することはアンダーグラウンドで安楽死が行われる危険性をも含んでいる。

 安楽死はさらに、意図の観点から以下の二つに分類される。

 

直接的安楽死direct euthanasia)患者の生命の短縮を意図して行われるもの。

間接的安楽死indirect euthanasia)患者の苦痛の緩和、除去を直接に意図した行為が副次的な結果として患者に死をもたらすもの。

 

死に瀕した患者の苦痛を緩和するためには、多量の鎮痛剤を投与することが不可欠になり得る。しかし、それには引き換えに呼吸機能の停止を引き起こす、あるいは患者の死を早めるという大きなリスクがある。医師が意図的に患者を死なせることは、道徳的に間違ったことであると広く認識されている。では、患者の死を引き起こす危険性の元、苦痛緩和の治療を行うことは正当化できるであろうか。

この問題にたいする正当化のひとつの議論に、二重結果説(The doctrine double effect)がしばしば用いられる。これによると、ひとつの行為から善悪ふたつの結果が生み出される場合、悪い結果(患者の死)を伴う行為は、もしその悪い結果が意図されておらず、かつ良い結果(患者の苦痛の除去)に到達するのに不可欠であるならば、その行為は正当化されうることになる。よって、患者の死を意図(intend)し行われる直接的安楽死を道徳的に許容できないものとし、他方患者の死は予想(foresee)されたが、意図されてはいない間接的安楽死については道徳的に許容されるということになる。

 二重結果説にたいする批判は、死が意図的である、あるいは予想されたが意図的ではないという区別だけでは、許される殺人と許されない殺人の重大な道徳的差異を示すには不十分であると論じられる。患者の症状や苦痛緩和のために大量の鎮痛剤を投与すれば、患者の死が確実になることは十分明らかであり、死が不確実であったとは見なせないという意見が近年多く見受けられる。

 さらに、作為、不作為の観点から以下の二つの分類がある。

 

積極的安楽死active euthanasia)患者に致死薬を投与する作為によって死なせるもの。

消極的安楽死passive euthanasia)延命治療を行わない、あるいは中断するという不作為によって患者を死に至らしめるもの。

 

積極低安楽死と消極的安楽死は、殺すこと(killing)と死ぬに任せること(allowing to die)で区別化される。多くの国において、死ぬに任せる消極的安楽死は道徳的に受け容れられるが、殺す積極的安楽死は許容できないという一致した見解が存在してきた。意図的に死を早める行為の形態にたいする恐れから、生命維持治療を意図的に中断することが、たとえ死が確実であることを知っていても許されるという確信が導き出された。この統一見解は、非常に最近まで大きな影響力を保持していたが、近年この殺すことと死ぬに任せることの概念上の区別は、道徳的意義をもたない曖昧なものとして批判する意見も多い。この区別の正当性を批判するジェイムズ・レイチェルズの有名な例は以下のようなものである。

スミスは、6歳の従弟にもしものことがあれば莫大な遺産を相続することになってい

る。スミスは従弟の入浴中に浴室に忍び込みその子を溺死させて、事故死に見せかけ

る。また、ジョーンズも同じような立場にあり、従弟の浴室に忍び込む。しかし、ジョ

ンズが浴室に入ったとき、その子は滑って頭を打ち湯の中に沈むのを目撃する。ジョ

ンズは大喜びをし、もし必要ならば従弟の頭を再び湯につけ戻す準備をする。しかし

その必要はなく、ジョーンズが見ていて何もしない間に、その子は少しだけもがいて事

故で溺れて死ぬ。

 また、積極的安楽死と消極的安楽死は、「作為」と「不作為」によって区別されることもある。上の例において、法律はいとこを殺す作為を行ったスミスのみを殺人罪に該当すると見なすかもしれないが、道徳上はスミスの作為とジョーンズの不作為を等しく非難する。

ジョーンズはいとこを助けることができたし、道徳的には助けるべきであったとされる。よって、実際に患者に致死薬を投与するという作為と生命維持治療を行わないという不作為間の道徳的な差異も、道徳上曖昧なものと見なされうる。

以上のように、近年、統一見解によって支持されていた治療の拒否の要求から、医師の助けを得ることの要求が正当化できるか否かに議論の中心は移行してきた。

 

自殺幇助assisted−suicide)致死薬を飲む、あるいはキーを打つたびに薬剤が投与される装置を用いるなど、直接に死に至る行為を患者が行い、医師はそれらを誘導するだけの場合。

慈悲殺mercy killing)患者の苦しみにたいする同情から患者を死なせる行為であるが、同情、思いやりの観点を重視する肯定的な用いられ方と、逆に患者に対する一方的な同情先行の行為として否定的に用いられる場合がある。

尊厳死death with dignity)文字通りに人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えること、あるいは消極的安楽死をイコール尊厳死であると見なすなど非常に多義的に用いられる。日本尊厳死協会の尊厳死の定義は、「不治の終末期患者が、リビングウィルに基づき、いたずらな延命措置を拒否し、安らかに人間らしい死をとげること」とされている。

 

安楽死肯定論

1)治療の観点 

 苦痛を緩和する鎮痛行為は治療行為に含まれるとし、現代の医療をもってしても患者の苦痛が取り除かれえないとき、死によって苦痛を除去することも治療(ケア)のひとつと考える。現在、緩和ケアやペインクリニックの技術は非常に発達してきているとはいえ、患者の苦痛を完全に除去できるわけではない。

 これに対して、患者の除痛が100%可能となれば安楽死を行われないようになるという指摘もある。さらに、安楽死を医療倫理に反すると見なす人の中には、「ヒポクラテスの誓い」が安楽死を明確に禁止していると訴える人がいる。ヒポクラテスの誓いとは、紀元前医師の卵たちが医師の道に入るときの誓いで、一部引用すれば、「私は自分の能力と判断に従って患者に対し、養生の処法を書き、決して人を害することはしない。決して死を招くような薬を処方したり、死に至るような忠告をすることはしない」とあり、これは現代の医師にも大きな影響力を持ち続けている。この伝統的な考え方から、生命の絶対的な終焉をもたらす安楽死を行うことで患者を苦しみから解放することを、ひとつの治療、ケアと見なすことにたいして根強い反発がある。

2)功利論 

 人間の生命を神聖で絶対的なものとは見なさず、人格的生命と生物的生命を区別し、生命の尊厳性を人格的生命に認める。この立場から展開されるのは「パーソン論」と呼ばれるものであり、このパーソン論では、あるものが「人格」であるためには、「自己意識」があることといった条件が必要であり、そのような条件を満たさない存在者の死を引き起こすことは許されると論じられる。よって、この議論の安楽死への適用は、重度の障害新生児の治療停止や安楽死、脳死状態の患者にたいする延命治療の中止などがあげられる。

 このパーソン論にたいする批判として、SOL(sanctity of life)に訴えるものがある。SOLは「生命の神聖さ」と訳され、人間の生命は無条件的に尊いものであるとする概念である。特にキリスト教圏では、人間は神によって造られたものであり、人の生命は他者が侵してはならない神聖なものであるという意味合いが「生命の神聖さ」に込められている。「生命の神聖さ」からのアプローチでは、ある人の生命の価値を他の人の生命の価値と比較することは許されないということになる。

3)権利論 

安楽死の問題は患者の権利にかかわるものであり、患者の自律・自己決定権にしたがって自発的な安楽死を認めるべきだとする。

 しかし、安楽死が法制化されたオランダにおいても、医師は患者から安楽死を要請されても、それに応え安楽死を行わなければならないという義務は持たない。患者の権利は、近年拡張しつつあると思われるが、果たして人は「死ぬ権利」を持つのか否か、未だ意見の分かれるところである。

 

参考文献

加藤尚武/加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社1998年

保阪正康『安楽死と尊厳死』講談社現代新書1993年

トム・L・ビーチャム ジェイムズ・F・チルドレス『生命医学倫理』成分堂1997年

Dan W.Brock“Medical decisions at the end of life”

Brain Stoffell“Voluntary euthanasia,suicide and physician-assisted suicide”

H.Kuhse ,P.Singer  A Companion to Bioethics,Blackwell 1998

 

 

 

 

まえがきとして 〜 世界の安楽死議論の現状

 

 日本の安楽死事件として有名なのは、世界で最初に安楽死容認のための6要件を示した山内事件と、その6要件を修正する4要件を判決文で示した東海大学病院安楽死事件である。その他にも、不起訴処分に終わった京都京北病院安楽死事件や現在医師が起訴されている川崎協同病院安楽死事件が思い浮かぶ。安楽死は社会から隔離された病院という聖域でのみ起こる現象ではない。報道としてはあまり大きな扱いはされないが、介護に疲れて果てて死期の迫った、あるいは回復不可能な近親者を死に至らしめる殺人あるいは嘱託殺人も、典型的な積極的安楽死にほかならない。この種の積極的安楽死を、マスコミは「介護殺人」と呼ぶ。この種の安楽死事件も、相当数起こっているようである(毎日新聞interactive にて検索したところ、過去1年に5件起こっている)。日本の安楽死事件は、以上のように医療や介護の過程で、結果として安楽死につながったというケースがほとんどである。

 隣の国、韓国では2001年4月に大韓医師協会が「回復が不可能な患者の場合、患者や家族からの要請や医師の判断で治療を中断できるとする」という消極的安楽死の受け入れを盛り込んだ医療倫理規定を制定することを決定したことについて、激しい論戦が巻き起こった。韓国では医師はいかなる場合であっても患者の延命のために力を尽くすべきであるという世論が強く、実際に1998年意識不明の患者を妻の要請に応じ退院させ、死亡させたとして、ソウル地裁はこの医師に殺人罪を適用し懲役2年6ヶ月という厳しい処罰を下したという経緯がある。この消極的安楽死の受け入れの問題も結局は倫理指針として規定に盛り込んだが、結局同協会はこの倫理規定にしたがって行動した場合、実際の法律により罰せられる場合もあることから「実定法を遵守する」立場を表明することで、倫理指針を可決した。韓国において安楽死における議論は上記のようなケースが目に付く程度である。

 

 では、欧米においてはどうだろうか。世界で最初に安楽死を合法化したのはオランダである。この安楽死を認めた法案は、いくつかの条件下で、安楽死を実施した医師の刑事責任を問わないという内容である。条件は、@患者は死を待つばかりの不治の病であることA耐え難い苦痛があるB患者本人から安楽死を求める要請が続いているC別の医師や家族の意見を求めているなど28項目の条件をクリアすれば医師は免責される。オランダ政府は医学や法律の専門家らでつくる審査会を地方ごとに設置した。委員会は医師の報告を審査し、医師を訴追すべきかどうか判断する。また、隣国ベルギーにおいても安楽死法が立法された。この法案は末期患者が一定の条件を満たす場合、意図的に死に至らしめた医師の罪を問わないことを法律で明文化するもので、安楽死が認められる条件としては@患者が十八歳以上の成人で意識がはっきりしていることA治る見込みのない病状で耐えられない苦痛を抱えていることB患者自らが熟慮した後に書面などはっきりした形で死にたいという意志を示すことがあげられている。また、「安楽死法案」と同時に、末期患者が経済的に苦しい状態や、孤独な状況にある場合でも、充実した終末期医療を受けられるよう、行政が保証するという内容の法案が可決され、患者が安易に安楽死に走らないようすることで、安楽死の反対派にも配慮する形となっている。

 

 欧米の安楽死議論は、自己決定権の延長として積極的安楽死は認められるべきだろうかという議論である。イギリスのダイアン・プリティのケースがこのことを顕著に表している。英国のルートンに住む二児の母のダイアンは、 1999年に運動ニューロン病(MND)と診断された。やがて彼女の身体は首から下が完全に麻痺し、車イスに装着されているコンピュータを使って会話を行ない、夫の介護でチューブを用いて食事するようになった。末期のことを憂えた彼女は、生の質が耐えがたい低さになる前に自ら命を断つことを決意し、夫に自殺の手助けを願い出た。夫は妻の最後の希望を叶えることに同意したが、自殺幇助は1961年の自殺法によって最大で懲役14年の犯罪と規定されている。そこで二人は検察当局に願い出て、妻を安楽死させた場合に夫が告訴されることのないように事前の刑事免責保証を求めたが、検察長官はこれを拒否したために、彼女は検察当局の判断を人権侵害であるとして司法審査を求めた。その理由は、2000年に施行された英国人権法が保証している生命権、非人間的な治療の禁止、思想の自由などはすべて、個人に尊厳死を選ぶ自己決定権があることを意味している、というものである。英国医師協会は、積極的安楽死は殺人との境界があいまいで濫用のおそれがあると主張し反対するなど、世論は彼女に対して否定的なようである。

 

 また、フランスではジョスパン前仏首相の母が自殺したことをきっかけにフランスで安楽死の是非を巡る論争が盛り上がっているようである。彼女は安楽死容認運動の支持者として知られ、自らの主張を自殺の形で実践したとみられている。ルモンド紙で公表された遺書で、ミレイユさんは「ぼろぼろになる前に旅立つ時だと思った」「自らの肉体の安らぎを求めて闘うすべての人に幸いあれ」と、安楽死擁護と取れる言葉をつづった。自殺が報じられて以後、「尊厳死の権利のための協会」(ADMD)には1000件を超える問い合わせが殺到したという。

 

 以上のように一概に「安楽死」といっても、世界各地でその議論はさまざまである。人間の自律に基づく行為としてて安楽死を合法とする国もあれば、それを認めようとしない国、また患者の自己決定権に基づく医療体制が全く整っていないのに積極的安楽死を議論しようとする国もある。それには、その国の宗教的な土壌といった文化的な背景も大きく影響しているのだろう。

 

 では、安楽死に関して全世界で統一的な見解はないのだろうか。直接に安楽死に言及しているわけではないが、1981年に世界医師会第34回総会で採択された患者の権利に関する声明である『リスボン宣言』(最新版は1995年9月インドネシア・バリにおける同第47回総会にて改訂)に患者の尊厳性についての記述を見ることができる。この宣言には、従来の世界医師会の宣言には見られなかった「患者は尊厳のうちに死ぬ権利を持っている」という条項が含まれている。しかし、具体的にどのようにすることが患者の尊厳を保つのかということには触れられてはいない。また、改定後の宣言文 1.良質の医療を受ける権利の中の f.に「医師は、患者がそれに代わる治療の機会が得られるような適切な支援と十分な配慮をすることなしに、医学的に必要な治療を中断してはならない。」とある。これは、安易な安楽死議論に対してのアンチテーゼのようだ。しかし、10.尊厳性への権利の中のb.とc.には「患者は最新の医学知識の下でその苦痛から救済される権利を有する。患者は人道的な末期医療(ターミナルケア)を受ける権利、およびできる限り尊厳と安寧を保ちつつ死を迎えるためにあらゆる可能な支援を受ける権利を有する。」この文面を見る限り、苦痛からの救済処置として安楽死が適切であると判断された場合、それを容認するという文章のようにもとれる。このように、世界医師会の宣言は安楽死議論においては解釈次第でどのようにもとれる内容になっている。各国により事情・背景が異なることから、統一見解というかたちで安楽死に対しての声明を採択することは難しいのだろうが、そのため各国の医学倫理は混乱状態にあるというのが現状のように思われる。

 


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