U.a.世界の安楽死に関する裁判と法律

 

  <アメリカ合衆国>   <カナダ>   <オーストラリア>   <オランダ>   <ベルギー>   <イギリス>

<U.b オランダにおける安楽死>


アメリカでは1976年に判決が下されたカレン・クインラン事件によって延命治療を拒否することが認められ、その後の安楽死・尊厳死の裁判や法律に大きな影響を与えることとなった。これは、医療行為について患者は自ら決定することができるというインフォームド・コンセント(informed consent)の考えにもとづいたものである。その後、カリフォルニア州で制定された「自然死法」が各州でも制定され、それにより延命治療の拒否の要件はより明確になっていく。これにより尊厳死は現在ではアメリカのみならず、広く末期医療の一環として認識されるようになっている。

安楽死および自殺幇助は今までオーストラリアの北部准州とアメリカのオレゴン州、オランダ、ベルギーで法制化が実現したが、オーストラリア北部准州とアメリカ・オレゴン州の法律はそれぞれの国の議会によって無効とするための法律が制定されている。両方とも地域住民の容認によって制定された法律であったが、そのことは国内外の賛否両論を生み、結果的にそれよりも強い決定権を持つ国の議会によって無効化された。一方で、オランダでは国家によってそのことが認められた世界で初めての法律が制定され、その後隣国のベルギーでも同様の法律が制定された。両国とも国家によって制定された法律であるため、それが無効化される事態は起こらないと考えられる。(2003年3月19日現在)

この章では尊厳死・安楽死に関する世界の流れがわかりやすいように、それぞれの国別に年代順に、裁判判例と法律についての一部ではあるがまとめてある。

 

 

 

 

 

アメリカ合衆国 

 

 

カレン・クインラン(Karen Ann Quinlan)事件:ニュージャージー州

【植物状態患者からの生命維持装置の取り外しを認めた裁判】

1974年、カレン・クインランは原因不明の事故(急性薬物中毒とも言われている)で意識を失い、植物状態になり生命維持装置をつけることとなった。彼女の認識機能が回復する可能性はほとんどないと診断された。

両親は主治医に生命維持装置を外すことを含む通常外の医療装置を打ち切るように申し出たが拒否され、ニュージャージー州上位裁判所に、父親を後見人にして医療措置打ち切りを認める権限を与えて欲しいと申し出た。しかし、カレンを死亡させることは彼女の利益の保護とはいえないとして申し立ては却下された。

それに対して同州最高裁判所に上告して争われた結果、1976年、憲法にプライバシー権は明文化されていないが過去の判例によってプライバシー権が存在し、その領域が広汎であることは認められてきた。そしてこれはまた一定の状況下で医療を拒む患者の決定を含んでいると思われる。カレンのこの権利が損なわれることを防ぐためにカレンの後見人と家族に対して、医療措置打ち切りについての判断を許可するとの結論が下された。

それを受けて、父親は判決の指示に従って同年生命維持装置を外したが、カレンは自力で呼吸を続け、1985年肺炎によって呼吸困難で死去した。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

カリフォルニア州自然死法(Natural Death Act):カリフォルニア州

【知的精神的判断能力のある植物状態の終末期の患者に生命維持装置を使用しない、または取り外すことを医師に要請できる権利を認めた世界で最初の法律】

カレン・クインランの裁判の影響を受けて、1976年カリフォルニア州で植物状態に陥った終末期には、生命維持装置を使用しないか、取り外すことを医師に要請する文書(リビング・ウィル)を、知的精神的判断能力があるときに証人を立てて作成する権利を住民に保証する法律「カリフォルニア州自然死法」を制定した。

この法に基づいて作成されたリビング・ウィルに従って行動した医師または医療関係者はその責任を問われず、またはリビング・ウィルに従った結果の死亡は自殺ではなく保険関係での不利益を受けないこと等が定められている。また反対者に配慮し、その内容はかなり厳格で制限的なものとなっている。

3年後には、同様の法律がワシントン州でも制定され、その後も他の州で同様の法律が制定されていた。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『時の法令』 1482号 「本人の意思による死の選択 アメリカにおける最近の安楽死法制化運動」星野一正

 

 

ジョセフ・サイケヴィッチ(Joseph Saikewicz)事件:マサチューセッツ州

【知的精神的判断能力のない患者の代理意思決定による治療をしない要請を認めた裁判】

 

 

 

サイケヴィッチは重症精神遅滞の67歳の男性で法的無能力者であった。1976年4月19日に急性骨髄茅単急性白血病であると診断された。

1976年4月26日彼が生活していたマサチューセッツ州精神保健局所属ベルチャータウン州ハンプシュア郡検認裁判所に彼の後見関係の請願を登録した。

次いでジェカノフスキによって控訴裁判所に本件が報告された。最高裁判所は、迅速な再調査に対する要請を許可した。彼らは、サイケヴィッチの治療及びケアについての必要な決定をする権限が与えられている「訴訟のための後見人」を専任することを、サイケヴィッチがインフォームド・コンセントをできないということを加えて、申し立てをした。

1976年5月5日検認裁判所は「訴訟のための後見人」を任命し、翌日「訴訟のための後見人」は裁判所に後見人としての正式な報告書を提出した。その内容は、サイケヴィッチの疾患の治療法は薬物を摂取する化学療法があるが、その副作用はひどく時にはそれが原因で死に至ることもあるものである。また化学療法に耐えられた患者でも症状が寛解するのは30〜40%に過ぎず、軽快しても通常2〜13ヶ月の期間しか続かない。60歳以上の患者の場合、化学療法に耐える力が弱く、成功率は低い。彼の場合、治療を行わないと数週間から数ヶ月しか生きられないであろう。治療をせず進行を成り行きに任せれば、患者には苦しみを与えず安らかな死が訪れるであろう。として検討したうえで、「何の治療もしないほうが、彼にとって一番よい」と申し立てた。

1976年5月13日、検認裁判所においてこの報告書に関する審理が行われた。裁判官は化学療法による否定的な要素が利益よりも超えていることを考慮して、化学療法を行わないことを決定し、同年7月9日に命令を出した。サイケヴィッチは同年9月4日に疼痛も苦痛もなく他界した。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『時の法令』 1616号 「患者の代理意思決定=サイケヴィッチ判決=」星野一正

 

 

コンロイ(Conroy)事件:ニュージャージー州

【知的精神的判断能力のない患者の治療拒否のための基準を提示した裁判】

 

 

 

クレア・コンロイ(当時84歳)は未婚で兄弟も友人もなく、60歳過ぎからは隠遁に近い生活を送っていた。1979年に脳組織症候群にかかり無能力者宣言を受け、唯一の血縁である甥が後見人となった。彼はコンロイをナーシング・ホームに入れ、カゼミ医師が彼女のケアを担当した。1982年7月、カゼミ医師はコンロイが食事を十分に取っていないことに気づき、食事と薬を与えるために鼻腔チューブを取り付けた。

後見人は、チューブの撤去を求めて訴訟を提起した。事実審理でカゼミ医師らの証言によれば、彼女は脳死・深昏睡・慢性の植物状態のいずれでもない。しかし知能は非常に低く、精神状態の回復は望めなく、苦痛を感じている可能性はある。もし鼻腔チューブを外せば脱水症状によって1週間程度で死ぬであろうが、その際には苦痛を伴うかもしれない。さらにある医師は、コンロイは今のままでもおそらく数ヶ月しか生きられないだろうと証言した。

事実審裁判所は、延命措置は無意味で残酷なものであるから、鼻腔チューブの撤去は許されると決定したが、上位裁判所はこの決定を破棄した。

コンロイは控訴審の審理中に鼻腔チューブを装着したまま死亡したが、原告はなお上告した。

そこでニュージャージー最高裁判所で審理され、1985年、コンロイのような知的精神的判断能力を持たないものでも治療を拒む権利を有している。しかしその権利を行使するためには、その患者が治療を拒否したであろう明確な証拠の有無を問う主観的テスト、患者が治療を拒否したであろうある程度の証拠がある場合に、治療により生じる負担がそれから生じる利益より明らかに重荷かどうかの制限的・客観的テスト、患者が治療を拒否したであろう明確な証拠がない場合でも、治療により生じるであろう患者の負担がそれから生じる利益よりも明らかに著しく重いものであるかどうかの純客観的テストの3つの「最善の利益」テストのどれかによって正当化されたときのみである。この件ではこの3つの基準を満たせておらず、もしコンロイが生きておればこのための調査を要求したであろうから、原判決は破棄を免れない。しかしコンロイはすでに死亡しており、この件を差し戻すことはしないとの判決が出た。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

ブービア(Bouvia)事件:カリフォルニア州

【末期状態でない若く意識がはっきりしている患者の補給チューブ撤去を認めた裁判】

エリザベス・ブービア(当時28歳)は生まれついて脳性麻痺のため片手の指数本、頭、顔をわずかに動かせるのみであった。聡明で精神能力は有していた。かつては夫を持っていたがその夫にも見捨てられ、両親にも面倒を見ることができないと告げられた。やがて通常の食事に吐き気を覚えるようになり流動食に切り替えることになったが、以前に何度か死の願望を表しており餓死を試みようとしていたことがあったため、医療スタッフは彼女の意思に反して栄養補給のための鼻腔チューブを取り付けた。

そこで彼女はチューブの撤去とこの種の処置の禁止を求めて提訴した。しかしカリフォルニア州ロサンゼルス地区上位裁判所は、原告の動機は公共施設を利用して自殺を図ろうとするもので治療拒否権の誠実な行使とはいえず、しかも十分な植物摂取があれば今後15年〜20年は生存できるであろうとして請求を退けた。

しかしカリフォルニア控訴裁判所で審議された結果、1986年、患者はいかなる治療や医療サービスをも拒否する権利を持っている。この権利はその行使が「生命の危殆化」を招く場合でも存在する。この権利が「末期」患者に限定されるべき実践的あるいは論理的理由はないとして彼女の主張を認めた。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

1989年統一末期病者権利法(Uniform Rights of the Terminally Ill Act,1989)

:統一州法全米会議(National Conference of Commissioners on Uniform State Laws)

【自然死法の統一のために1985年に定められたモデル法をさらに革新したもの】

 

 

 

カリフォルニア州自然死法の制定以後、同様の法律が多くの州で作成されたが、それらの内容はかなり不統一であった。

そこで統一州法全米会議は1985年、「統一末期病者権利法」を定め、このモデル法によって統一を図るとともに、他州で作成されたリビング・ウィルにも効力を与えようとした。

さらに1989年、新たな「統一末期病者権利法」を定めた。これは1985年のもと比較して、患者があらかじめ指名した他人に末期状態になったときの意思決定の代行を認め、そのような趣旨の宣言書を作成できること、末期状態に陥った患者のリビング・ウィルがない場合、患者の家族等に治療の差し控え・装置の撤去を決定する権限を認めていることという2つの点で大きく異なっていた。

前者の権限は、1983年にカリフォルニア州の「持続的委任状法(Durable Power of Attorney for Health Care Act)」で初めて法的根拠を与えられ、多くの州でもすでに認められたものであった。また後者の権限は、判例ではすでに広く認められており、州法でもアーカンソー州法(1977年制定)のように認められている例も少なからずあった。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

クルーザン(Cruzan)事件:連邦最高裁判所

【延命治療拒否について連邦最高裁判所が初めて判決を下した裁判】

 

 

 

1983年、ナンシー・クルーザン(当時25歳)は交通事故により植物状態になり、水分と栄養を送り込むチューブが取り付けられた。呼吸は自力で行われており、水分と栄養の補給さえあれば30〜40年は生き続けられるであろうとされている。共同後見人である両親は病院に胃チューブの撤去を求めたが拒否されたため、訴訟を提起した。

ミズーリ州巡回裁判所は、彼女が事故の1年ほど前に友人に大きな障害を負った場合死んだほうがよいと語っていたことから両親の請求を認めたが、州から上訴がなされミズーリ州最高裁判所は、どのような状況下でも治療を拒否できる権利を含む広範なプライバシー権を州憲法に見出すことはできず、合衆国憲法がそれを認めていると解することにも疑問がある。またリビング・ウィルも示されておらず、患者が治療拒否を望んでいるという明確な証拠がないとして、判決を破棄した。

両親から裁量上訴の申し立てを受けた連邦最高裁判所は、1990年、合衆国憲法は知的精神的判断能力者が生命維持のための水分と栄養の補給を拒否する権利を認めていると仮定した上で、無能力者も同様の権利を有するはずであるが、この件では患者がそのことを希望している明確で説得力のある証拠がないとの判決を下した。

それを受けて両親は彼女の希望を証明する3人の友人の証言を証拠として、審理の再開を求めた結果、1990年、第1審判決を下した裁判所により、あらためて両親に水分と栄養を補給するチューブを取り外す権限が与えられた。これに従ってチューブが外され、同年ナンシーは死亡した。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

イニシアティブ(Initiative)119:ワシントン州

【末期患者の積極的安楽死を容認する法律の制定を目指したが実現しなかった例】

 

 

 

ワシントン州では1991年11月5日に「イニシアティブ119」と呼ばれる法案に対しての住民投票が行われた。この法案の内容は、死期が迫った知的精神的判断能力のある成人末期患者が人道的な方法で穏やかに死への幇助を望むことを自主的に決定し、文書を作成し、医師に要請し、その医師の手によって死への幇助をしてもらう権利を法律が認めるものである。

この法案が通れば、「ワシントン州自然死法」の部分的改正を含めて「ワシントン州尊厳死法」と命名される新しい法律に抱合されるはずであった。しかし住民投票の結果、賛成46%、反対54%で実現しなかった。

参考文献:

『時の法令』 1482号 「本人の意思による死の選択 アメリカにおける最近の安楽死法制化運動」星野一正

 

 

プロポジション161:カリフォルニア州

【末期患者の積極的安楽死を容認する法律の制定を目指したが実現しなかった例】

 

 

 

カリフォルニア州では1992年11月3日に「プロポジション161」と呼ばれる法案についての住民投票を実施した。その内容はワシントン州の「イニシアティブ119」に類似していて、医師や看護婦などが宗教的、道徳的などの理由で反対の場合には要請を受け入れなくてもよいことなどがついかされていた。

住民投票の結果、賛成47%、反対53%で実現しなかった。

参考文献:

『時の法令』 1482号 「本人の意思による死の選択 アメリカにおける最近の安楽死法制化運動」星野一正

 

ワシントン州自殺幇助規定違憲訴訟:連邦控訴裁判所

【自殺幇助規定を違憲であるとした裁判】

 

 

 

原告である3名の末期患者、4名の医師、パッション・イン・ダイイング(自殺を考えている精神的能力者である成人の末期患者とその家族に対して無料で助言や相談に応じる非営利団体)は、ワシントン州改正法典9A編〔刑法典〕360章060条は合衆国憲法修正14条に違反するとして、同法を違憲とする宣言的判決と、同法の執行を禁止する差止命令による救済を求めて訴えた。

ワシントン州西部地区連邦司法裁判所は差止命令による救済は認めなかったが、同規定は合衆国憲法修正14条のデュー・プロセス条項および平等条項に違反すると宣言した。

ワシントン州の控訴を受けた第9巡回区連邦控訴裁判所は、1996年実体的デュー・プロセス違反を理由に控訴を棄却した。

またオレゴン州の尊厳死法を違憲とした連邦地裁判決を、控訴裁判所が末期患者の権利と解する「医師の幇助を受けた自殺」を負担とし、同裁判所が負担と解する自殺幇助規定を末期患者にとっても利益であるとするものであるとして「明らかに誤っている」とした。

また第2巡回区連邦控訴裁判所は、同様のニューヨーク州の法律も違憲との判断を下した。

ワシントン州改正法典9A編〔刑法典〕360章060条

@故意に人の自殺行為を惹起し又は助ける者は、自殺行為の助長の罪とする。

A自殺行為の助長は、C級犯罪とする。

合衆国憲法修正14条

[第1節]

合衆国において出生し、またこれに帰化し、その法域に服しているすべての者は、合衆国およびその居住する州の市民である。いかなる州も、合衆国市民の特権または免除を制限する法律を制定あるいは強制してはならない。またいかなる州も、法のデュー・プロセスによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またいかなる州も、その法域内で何人に対しても法の平等の保護を拒否してはならない。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『ライフズ・ドミニオン』 ロナルド・ドゥオーキン著 水谷秀夫・小島妙子訳

 

 

オレゴン州尊厳死法:オレゴン州

【世界で2番目に積極的安楽死(そのなかでも自殺幇助)を認めた法律】

 

 

 

オレゴン州では、住民投票の認可に必要な数以上の住民の署名を確保して、それが認可され、1994年11月8日に「オレゴン州尊厳死法」についての住民投票が行われた。

この法案の内容を要約すると、

州の住民で、複数の医師に「不治の病で良くなる見込みが全くない終末期の病気にかかっていて、適切な医学的判断によれば半年以内に死亡すると推定できる」と診断された判断力のある成人患者は、自主的に医師に「人道的で自分の尊厳を守ってくれる方法で生命を終焉させうる薬剤を処方して欲しい」と要請することが法的に認められる。また州の医師はそうした患者へ処方できる。患者はその要請の後第1段階として15日間以上の間に定められた用件を満たし、その後第2段階としての用件を満たした後で48時間の待機の後、薬剤を処方してもらえる。この間に要請を撤回できる。またその薬剤を服用するか否かは患者が判断できる。

といったものである。

住民投票の結果、賛成52%、反対48%で過半数を得た。

これから法案発効までの15日間の猶予期間中の同11月23日に、反対する患者および医療機関が「本法案には米国憲法修正1条及び24条に違反している疑いがある」として訴えた。それを受けて、連邦地方裁判所のマイケル・ホーガン裁判官が「法制化手続きの執行」の暫定的差止命令を出し、法制化の手続きは中断した。その後1995年8月3日に、同裁判官は「本法は米国憲法に違反している」と裁決し、本案的差止命令を出し、本法の法制化は実現できなくなった。

しかしこの判決について、連邦控訴裁判所第9巡回裁判所に控訴した結果、1997年2月27日に逆転判決が下され法制化手続差止命令を撤回するように指示された。しかし反対派は連邦最高裁判所に上告したが、最高裁判所は1997年10月14日に連邦控訴裁判所の判決を支持し上告理由を認めなかった。

また反対派議員がオレゴン州議会に「1994年提出のオレゴン州尊厳死法法案16の廃止を問う住民投票のための法案51」を提出し、1997年9月2日に可決された。これにより1997年11月4日に住民投票が行われ、その結果賛成60%で法案は認められ、今度は15日間の待機期間を経て「オレゴン州尊厳死法」は正式に制定された。

しかし1999年6月17日に「疼痛除去促進法案」が連邦議会下院に上程された。この法案は、「連邦政府管理取締り物法」を改正して取締り物を使用した安楽死、自殺幇助を認めないとするものである。これがどう11月19日に可決された。また米国司法長官アシュクロフトがこの法律を理由に「オレゴン州尊厳死法」を無効にする指令を出したので、オレゴン州政府は米国司法長官らを被告人として第1審裁判所に訴訟を提起している。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『時の法令』 1542号 「オレゴン州尊厳死法の違憲訴訟逆転勝訴」星野一正

『時の法令』 1558号 「オレゴン州尊厳死法の住民投票による容認」星野一正

『時の法令』 1560号 「「オレゴン州尊厳死法」制定後の賛否両論」星野一正

『時の法令』 1662号 「連邦司法長官らを訴えたオレゴン州」星野一正

 

 

 

カナダ

 

 

スウ・ロドリゲス(Sue Rodriguez)事件

【カナダにおいて自殺幇助が認められなかった裁判】

 

 

 

ブリティッシュ・コロンビア州に住むスウ・ロドリゲス筋萎縮性側索硬化症(ALS)という全身の筋肉が侵される3,4年で死を迎えることが多い難病によって、肉体的、精神的苦痛を受けていた。しかし彼女はすでに自殺する体力がなかったため、医師に自殺を幇助してもらう権利を認めてもらう訴訟を起こした。

しかし1審でも2審でも認められず、カナダ最高裁判所に上告した。しかし同裁判所でも1993年9月30日棄却され、認められなかった。

だが彼女はその後、匿名の医師の幇助を受けて1994年2月12日に死を迎えた。カナダでは自殺幇助は罪になるが、彼女の死を支援した弁護士や医師は起訴されなかった。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『時の法令』 1490号 「カナダで医師による自殺幇助を受けた女性」

『時の法令』 1502号 「カナダ上院特別委員会による患者の自殺幇助の法的容認否定」星野一正

 

 

ロバート・ラティマーの長女殺害事件

【カナダで起こった慈悲殺】

 

 

 

1993年10月24日カナダ・サスカチュワン州でロバート・ラティマーが12歳の長女トレーシーを殺害した事件が起きた。ロバートは小型トラックの運転台にトレーシーを座らせ、ホースで排気ガスを送り込み、一酸化炭素中毒でトレーシーを殺害した。

トレーシーは重度の脳性マヒで、話すことも、自分で食べたり飲んだりすることも、歩くこともできず、さらに股関節脱臼が加わって、それらの苦痛を絶え間なく受け続けていた。

ロバートはそういう彼女の状態から救ってやるために慈悲殺を行った。しかし彼女は話すこともできなかったので、そのように考えたのは父親の判断であった。

1994年11月17日サスカチュワン州裁判所はロバートに対し、第2級謀殺と判決し、執行猶予のつかない10年の懲役刑を課した。その後カナダではこの判決には多くの賛否両論が起こった。

参考文献:

『時の法令』 1494号 「カナダの慈悲殺」星野一正

 

 

 

オーストラリア

 

 

「終末期患者の権利法」(Rights of The Terminal Ill Act)

【世界で初めて積極的安楽死(そのなかでも自殺幇助)を認めた法律】

 

 

 

1995年5月25日「医師による患者の自発的安楽死ならびに自殺幇助」を世界で始めて認めた法律であるオーストラリアのダブリン市ノーザン・テリトリー准州議会「終末期患者の権利法案」が可決された。

この法案はまず1月に上程された後、計9日公聴会が開催され、それとは別にオーストラリア各地から法案に対する計1221件の賛否の証言が提出された。その後准州議会内に設置された5人の議員で構成された特別委員会にかかり、そこで20項目の勧告を付け加えられ5月16日に答申された。そこでさらに審議を重ね5月25日に可決された。

以下にあげるのは最終修正後の「終末期患者の権利法」ではなく、上程された法案の要点である。

18歳以上の終末期患者は、病気の激しい苦痛を理由に資格を有する医師にその生命の終焉の幇助を要請できる。この要請はいつでも、どんな方法でも撤回できる。生命の終焉は人道的な方法でされなければならず、患者の意志とは別の決定のための報酬や脅迫をしてはならない。

これに対しての特別委員会の勧告の要点は

生命の終焉の承認と幇助の実施との間に冷却期間を盛り込むことや、不法行為に対する罪を重くすること、幇助する臨床医が患者と職業的または家族的関係をもっておらず少なくとも5年以上の経験のあること

などである。

この法律は1996年7月1日に施行された。

しかしその後「安楽死の法律の法案1996」(Euthanasia Laws Bill 1996)が連邦議会に提出され、1997年3月25日に可決された。

この法律は北准州の法律を無効化するためのもので、オーストラリア提督がこれに署名した1997年3月27人に「終末期患者の権利法」は効力を失い、また将来准州で「医師の幇助による患者の自発的安楽死と自殺幇助を容認する法律」を制定する権限を奪った。この期間で法律にのっとって死亡したのは4名である。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

『時の法令』 1500号 「本人の意思による死の選択―オーストラリアで世界初の安楽死法可決」

『時の法令』 1544号 「オーストラリア北准州の安楽死法は無効となる」星野一正

 

 

 

 

オランダ

 

 

アルクマール事件

【オランダで患者の要請による安楽死が正当化された裁判】

 

 

 

95歳の女性はホームドクターに数回、医学的に生命を絶ってくれるかたずね、1980年4月書面で安楽死の意思表示をしていた。彼女は1982年7月16日の数週間前からそのことを強く望みまた身体も衰弱していたが、当日彼女と彼女の息子夫婦、そしてホームドクターとそのアシスタントで安楽死について話し合い、ホームドクターは彼女に薬物を注射して安楽死させた。

そのことはホームドクターによって捜査機関に報告され、裁判になった。アルクマール地方裁判所では実質的違法性に欠けるとして被告人であるホームドクターを無罪としたが、1983年アムステルダム控訴裁判所は1審判決を破棄し、刑を宣告しない有罪判決を下した。最高裁はこれについて緊急避難として正当化して本件を控訴審に差し戻し、1994年ハーグ控訴裁判所はこれを受け入れ被告人を無罪とした。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

フローニンゲン事件

【安楽死が認められる不可抗力・緊急避難について詳しい見解を示した裁判】

 

 

 

多発性硬化症を患っていた73歳の女性は友人である医師に安楽死を何度も要請していた。医師はこれに応じ1982年8月4日彼女にセコナール溶液を渡し彼女は効き目を強めるためにこれをポートワインとともに飲んだ。医師は彼女が意識を失っていたがまだ生きていたので致死量のモルヒネを注射した。医師はこのことを検察官に通知した。

1審はフローニンゲン地方裁判所で争われ刑の宣告をしない有罪判決を下したが、レーワルデン控訴裁判所は1審判決を破棄し被告人である医師に2ヶ月の拘禁刑の宣告をした。これに対し被告人とその弁護人は上告して1986年オランダ最高裁判所で原判決を破棄して控訴裁判所に本件を差し戻した。

だがアルンヘム控訴裁判所は差戻審でも第1次控訴審と同じく執行猶予付きの有罪判決を下し、本件はオランダ最高裁判所に再び上告された。しかしそこでも死亡した女性が末期でなく正しい選択がなされたとは言いがたく被告人が心理的不可抗力によってそれをするのを避けられない状況ではなかったとして被告人らの上告を棄却した。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

シャボット医師事件

【精神疾患の患者でも安楽死が認められることがあることを認めた裁判】

 

 

 

50歳だった女性は長男を自殺、次男を病気で失い夫とも離婚していて、精神病的特長を伴わないうつ状態にあり、自殺を希望していた。オランダ任意的安楽死協会は彼女にシャボット医師を紹介した。シャボット医師は彼女と様々な話し合いを続け、複数の専門家に相談をした結果、彼女に薬を渡し、彼女はそれによって1991年9月28日友人、ホームドクター、シャボット医師の立会いの下死亡した。シャボット医師はこのことを地方自治体の検察官に報告した。

1審のアッセン地方裁判所と控訴審のレーワルデン控訴裁判所はともに被告人であるシャボット医師を無罪とした。検察官が上告して争われた結果、1994年6月21日、身体的苦痛や患者が死期にある場合以外でも緊急避難は認められるとしたうえで、このような場合被告人とは独立した医師が患者を自らも診察したうえで苦痛の著しさやその救い難さ、または患者を救う他の方法について判断しなければならないが本件ではそれがないとして、原判決を破棄し、刑の宣告のない有罪判決を下した。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

  

 

ベルギー

 

 

ベルギーの安楽死容認法

【世界で2番目に国家によって認められた積極的安楽死を容認する法律】

 

 

 

ベルギー上院は2001年10月25日、下院では2002年5月16日に医師による安楽死を容認する法案を可決した。ベルギー国王が署名すればオランダに続き世界で2番目の安楽死を合法化する国が誕生する。

これによりベルギーでは、特定の条件下で、終末期患者が死にたいときに幇助をする権利が、患者に依頼された医師に与えられる。

主な条件は

@18歳以上

A医学的に回復の見込みのない状態で、身体的または精神的に耐えがたい苦痛がある

B本人の複数の「医師への特殊な要望」がある

C医師の承認(患者が終末期状態でない場合は、精神科医あるいは患者の疾患のスペシャリストの医師にセカンド・オピニオンを求めなければならない)

D患者からの要請を受けてから安楽死させるまでに1ヶ月以上経過していかなくてはならない

などである。

参考文献:

読売新聞20011026

毎日新聞2002517

『時の法令』 1670号 「ベルギーの安楽死容認法」星野一正

 

 

  

 

イギリス

 

 

トニー・ブランド事件

【イギリスで植物状態の患者の治療中止を認めた事件】

アンソニー・D・ブランドは1989年事件によって肺が押しつぶされ、3年以上もの間植物状態にあった。トニーは自らがこのような状態に陥ったときへの指示は与えていなかったが、家族と担当医師およびそのほかの2人の医師も食物供給等の中止が適切であることに同意していた。そのことに治療機関は確認判決を求めた。

1992年、高等法院家事部はこのことを認める確認判決を下し、控訴院もこれを支持した。そして上訴され貴族院に持ち込まれたが、1993年貴族院もこれを認めた。

参考文献:

『安楽死・尊厳死・末期医療』 町野朔 他編著

 

 

【イギリスで意識がはっきりしている患者の生命維持装置の使用の停止を認めた裁判】

 

 

 

2001年2月に英国の43歳の女性は全身マヒを起こし、自分で呼吸ができなくなり生命維持装置をつけることになった。しかし意識ははっきりしていたものの、回復する見込みが1%しかなく、患者は病院に装置の取り外しを要求した。病院がこの要求を拒否したため裁判になった。

2002年3月6日英国高等法院の判事と弁護士が病院の集中治療室(ICU)に出張して異例の出張審査が行われた。その際に、「死なせてください」という患者の証言が数キロメートル離れた法廷にテレビ中継された。

2002年3月22日英国高等法院は患者の希望を受け入れて、生命維持装置の使用の停止を許す判決を下した。

参考文献:

『時の法令』 1664号 「英国高等法院尊厳死を容認」星野一正

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

U.b.オランダにおける安楽死

 

 

 

 オランダは、世界に先駆け積極的安楽死を合法化し刑法改正を行った。ここでは、安楽死先進国とも言われるオランダにおいて、その国の持つ特異性と合法化がどのように実現したかをまとめたい。

 

 

1、オランダの特異性

まず、オランダでは「安楽死」と言えば、患者本人の要請に従って医師が患者の生命を終わらせる、すなわち自発的積極的安楽死であるという共通認識が浸透していると言われる。つまり、オランダでは非自発的安楽死、反自発的安楽死、さらに消極的安楽死を「安楽死」に含まない。議論の対象がはっきりしており、かつ一致していることが大きな特徴であろう。

さらにより注目すべきであるのは、オランダのホームドクター制度である。オランダでは、家庭医(ホームドクター)と専門医が独立しており、すべての人が近所のホームドクターに登録をしている。病気になればまずホームドクターの診断を受け、その後専門医を紹介されるというシステムがある。担当の患者が専門の病院に入院している間も、ホームドクターは患者のもとを訪れる。何十年も同じホームドクターに診てもらっているという人も多く、ホームドクターは自分の患者の病歴、治療薬歴を把握しているだけでなく、患者の家庭の事情や精神的な悩みなどもふまえて治療にあたるという。

このようなシステムを持つオランダでは、患者とホームドクターの信頼関係が他国と比して強いと言われる。患者と医師の間に信頼関係が成り立っているので、インフォームド・コンセントも徹底されている。さらに、実際に安楽死を実施した経験を持つ医師のパーセンテージを比較すると、専門医が44%、ナーシングホーム(日本で言う老人病院)の医師が12%、ホームドクターは62%と最も高いという。このホームドクター制度が、オランダにおいて積極的安楽死が容認されるに至った、最大の要因であると思われる。

 

 

 

2、安楽死法制化までの経緯

 

1971年ポストマ安楽死事件と1973年 レウワーデン判決

オランダにおける安楽死論争の起こりは、ポストマ医師安楽死事件からだと言われる。ポストマ女医は、母親からの要請に基づき致死量のモルヒネを注射し、母親を死なせたとして起訴された。これに対し、1973年のレウワーデン地方裁判所の判決では、オランダ刑法第293条に違反したとして、ポストマ医師は懲役一週間、執行猶予一年という有罪判決を受けた。この時点でのオランダ刑法第293条は、「他人の明示のかつ真摯な嘱託によりその者の生命を奪った者は12年以下の拘禁刑又は第五類型(十万ギルター以下)の罰金に処する」と規定されていた。

さらに、レウワーデン地方裁判所は判決の中で、安楽死容認四要件を発表した。それは、@不治の病であること、A耐えられない苦痛、B自らの生命の終焉の要請、C担当医師あるいはその医師と相談した他の医師が患者の生命を終焉させる、というものである。

この事件をきっかけに、多くのオランダ市民と医師の同情の声がポストマ女医に集まり、他の医師たちがオランダの法務大臣宛の「自分たちもポストマ医師と同じ罪を犯したことがある」という内容を含む公開書簡に署名した。さらに事件後、オランダ自発的安楽死協会も設立された。ここからオランダの安楽死議論が始まったと言われる。

 

 

1981年検察長官委員会の設置

1981年にオランダの検察庁は、すべての安楽死事件について審議を行う検察長官委員会を設置した。さらに同年、オランダ国家安楽死委員会が設置されている。この委員会の役割は、安楽死及び自殺幇助のこれからの政策や法律の適用に関して政府に勧告することであった。

 

1984年アルクマール事件

1984年のアルクマール事件に対する裁判では、オランダ初の最高裁判所における安楽死事件の判決が出された。この事件で安楽死を受けた女性の患者は、被告である医師に対し、数年前から「自分の尊厳を保つことができなくなったならば、安楽死させて欲しい」と告げていて、文書にも署名していた。最高裁判所は、被告人の医師が行った行為を緊急避難と認め、医師の刑事責任を問わないという判決を下した。この事件は、患者本人の要請に基づいた医師による安楽死を、最高裁が容認したことで注目される。

 

1984年オランダ王立医師会による安楽死公式の見解と五要

医学界からの動きとして、1984年のオランダ王立医師会による「安楽死に関する公式の見解」では、「安楽死は患者にとっての最後の選択肢として実行されねばならない」とはっきり述べられている。さらに、この医師会の見解では、オランダ王立医師会の「医師へのガイドラインの五要件」が勧告されている。その内容は、@自発的な要請、A十分考慮した上での要請、B持続的な要請で、期間を限定しない、C耐えられない身体的な苦痛、D他の医師の意見が必要、というものである。このガイドラインには、患者が終末期であることは含まれていない。

 

1985年ハーグ下級裁判所事件

1985年にハーグ下級裁判所事件が起こる。これは、多発性硬化症のために身体的苦痛並びに精神的苦痛に苦しむ34歳の終末期ではない女性患者が、医師に安楽死を要請した事件であった。この事件に対し、ハーグ下級裁判所は緊急避難行為を認め、医師は不起訴処分となった。この判決により、患者自身の要請に基づいていれば、必ずしも終末期でなくともよいことが初めて認められた。

 

1990年安楽死報告届出制度

1990年に、裁判所とオランダ王立医師会が「安楽死報告届出制度」を定める。この届出制度では、安楽死を実行した医師は、まず監察医務官(検察官)に報告する。そして、監察医務官による検死後、地方検察庁で審議され、不審な点がなければそのまま埋葬の許可が下りる。さらに、地方検察庁を経て、81年に設置された上記の検察長官委員会によって審査され、起訴か否かの決定が下されるというものであった。

 

1991年レメリンク調査

1991年に、ヴァン・ダ・マス教授によって、オランダの医師に対する90年の終末期の決定に関するアンケート調査、通称レメリンク調査の結果が発表された。この調査では405人の医師へのインタビューと共に、6000人の死を診断した医師へのアンケートが行われた。同様に、96年にも95年の調査結果が示された。この報告により、明確な要請がなく生命が終焉された行為が90年におよそ1,000件(全死者数の0,8%)、95年にはおよそ900 件(全死者数の0,7%)であったということが明らかになった。この非自発的安楽死の数値に対し、諸外国から多くの非難が集中した。レメリンク調査結果で明らかとなった非自発的安楽死に対する反応は、オランダの国民よりも他国の人々のほうが大きかったと言われる。レメリンク調査報告の詳細については以下の通りである。

                1990年       1995

全死者数                        129,000             135,500

安楽死の要請                                              8,900  (7%)          9,700 (7,1%)

安楽死                                                       2,300 (1,8%)         3,200 (2,4%)

自殺幇助                                                      400 (0,3%)            400 (0,3%)

明確な要請なしでの生命終焉の行為              1,000 (0,8%)            900 (0,7%)

医師の報告(安楽死と自殺幇助)                 486件          1,466件

             ※括弧内のパーセンテージは全死者数に対する割合である

 

1991年法務省による安楽死の定義と五要件

政府の取り組みとして、オランダ法務省は、1991年に安楽死の定義を公表する。その定義とは、「安楽死の五要件(@患者の耐えがたい肉体的、身体的苦痛がある。A患者は回復の見込みがない。B十分な情報を得て、患者の自由意志に基づいた要請である。C最低一名の他の医師と相談する。 D医師は経過を書面に記載する)」を満たすことを前提に、「安楽死とは『患者本人の意思』、並びに、その者の『真摯で、継続的な要求』に基づいて、医師がその患者の生命を故意に終わらせること」であるというものであった。

 

1993年遺体埋葬法改正

 1993年「遺体埋葬法」が改正される。これは、90年の安楽死報告届出制に対し、法律上の根拠を与えたものであり、この時点では前掲のオランダ刑法293条は改正されておらず、法的には安楽死も自殺幇助も違法とされたままであった。安楽死を合法化するとなると、刑法の改正も必然に伴う。しかし、諸外国では「オランダが安楽死を合法化した」といささか誤解が生じた。

 

1994年シャボット医師安楽死事件

1994年、シャボット医師安楽死事件が起こる。精神科医であるシャボット医師が、二人の息子を亡くした女性の死にたいという願いに応え、彼女の自殺を幇助した。最高裁判所における判決は、シャボット医師に対し有罪判決を下したが刑罰はなかった。シャボット医師の事件は、オランダでは身体的苦痛という上記の法務省のガイドラインの要件を超えて、精神的な苦痛のある人に対する自殺幇助が事実上容認されたことを示すものであった。

 

2001年積極的安楽死、自殺幇助の合法化

2001年4月、「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺幇助法」がついにオランダで可決されるに至る。ここで初めて、前述のオランダの刑法293条が改正されることになる。    

改正されたオランダ刑法の第293条では、次の項目が付け加わっている。前項の犯罪(改正前の刑法第293条)が…「相当の注意」の必要条件を満たしている医師によって行われ、埋葬・火葬法の第7条の二項に従って、自治都市の検死官に報告してあるならば罰すべきでない。

「相当の注意」の必須条件:医師は、

  a.患者の要請が自発的で、かつ十分に考慮されたことに確信があり、

  b.患者の苦痛・苦悩は持続的で、耐えられないものであったことに確信があり、

    c.患者には置かれている状況と今後の見込みについて説明し知らせてあり、

   d.患者が置かれている状況に対する合理的な解決法はなかったという確信が患者にあり、

   e.患者を診察し、aからdの必須条件について、少なくとも一人の他の医師に意見を求めたことがあり、

   f.「相当の注意」をしてその患者の生命を終焉させたか、自殺幇助をした。

 

 

 

参考文献:

宮野彬『オランダの安楽死政策−カナダとの比較−』成文堂1997年

ジャネット・あかね・シャボット『自ら死を選ぶ権利 オランダ安楽死のすべて』徳間書店1995年

町野朔他編『安楽死・尊厳死・末期医療 資料・生命倫理と法U』信山社1997年

ピーター・シンガー著 樫則章訳『生と死の倫理−伝統的倫理の崩壊−』昭和堂1998年

『時の法令』1650号

Henk Jochemsen and John Keown,“Voluntary euthanasia under control? Further empirical evidence from the Netherlands”Journal of Medical Ethics 1999;25

 


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