「専門職集団とメンバーの自律」 田中朋弘(熊本大学文学部)
2006年に明らかになったいわゆる「病気腎移植問題」は、もともと、ドナーとレシピエントによる臓器売買事件を発端としている。どちらに関しても、そうした行為そのものの倫理的妥当性が問題とされうるが、本発表では、病気腎移植問題をめぐる担当医、病院、関係学会などの対応を手がかりにして、専門職の自律性とその制約条件についての考察を行いたい。専門職に関しては、(賃金労働的に)「雇われていない(self-employed)」という一般的な特徴が挙げられるが、近年の専門職の多くは、一定の組織に属して仕事しているという現実がある。
そうした専門職は、―たとえば医師であれば―狭い意味での職業的組織(病院)と広い意味での職業的組織(専門職集団)の両方に属することになる。専門職研究という文脈から言えば、医療専門職である医師の自律性は、専門職集団によるコントロール下で初めて保証されるものである。医師という職業に対する患者の信頼は、「個人的な人格」に対する信頼だけにとどまらず、医療専門職といういわば「集団的な人格」への信頼によって成り立っているからである。いいかえればそれは、社会的信頼なのである。
くだんの「病気腎移植問題」の場合、担当医は一貫して治療の妥当性を主張しているが、日本移植学会を初めとする関係学会(日本透析医学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会)は、問題の病気腎移植は移植医療として多くの問題があった(医学的な妥当性がないものが多々ある)ことを認める声明を出した(2007年4月1日)。他方で、当該医師の所属する病院が設置した調査委員会では、外部委員から構成される専門委員会(調査委員会の下部組織)委員の大方の意見に反して、ドナーの不足や患者の事情を勘案すると全面的に否定はできないという判断を下している。さらに、厚生労働省はこの問題をうけて、改正臓器移植法運用指針に生体移植に関する項目を新設し、病気腎移植の原則禁止を盛り込んだ(2007年7月)。しかし患者の中には、担当医を支持する意見も多くある。
関係者のこうした判断は、それぞれがそれなりの妥当性を主張し合うことで、専門職集団としての対応に大きなねじれが生じている。この問題は、単に特定の医者が例外的な逸脱行為を行ったということだけにとどまらず、医師とその専門職集団との関係を示唆しているのではないだろうか。本発表では、そうした関係性を、専門職の自律性とその規制(および規制主体)という観点から検討することになる。
看護という組織における個人の自己決定
1.看護はなぜ自律した自己決定を行えなかったのだろうか
熊本大学医学部保健学科 森田敏子
我が国の江戸時代は、漢方を用いる在宅医療が身内による看病によって行われていた。人間を全体として捉える思想に基づく、病を克服する自然治癒力を重視した漢方薬種による治療である。漢方には治療と看護の区別はなく、看護が内包されていることから看護の独自性や看護の自己決定といった発想は生まれ得ない。
当時の看病は一家の主人である男子の役割とされ、実際の看護は、主人の背後にいる妻や娘、使用人が行っていた。看護者は、看病の責任を負う主人の意向を尊重する必要があり、看護者独自の自己決定は行えない。看護する際は、医者の処方による指示を守り、病状を主人に報告し、指示を仰ぐということが重視されていたのである。
明治時代になっても本格的な看護婦養成は行われず、看護者は素養もなく経験に頼っており、親身に看護したとしても、独自の判断による自己決定をすることはなく、指示されたことを指示されたように行うのが良い看護とされていたと推察される。
明治18(1885)年に我が国最初の看護学校が設立されて、有志共立東京病院(現在の慈恵病院)において教育(5名の生徒)が始まった。病院長の高木兼寛はイギリスの聖トマス病院に留学しナイチンゲール看護を視察している。その後、第二、第三と看護学校が設立されたが、諸般の事情から発展せず、時の政府は看護教育に無関心で、看護とは何かという教育さえ行われず推移した。看護婦は徒弟制度で教育され、上長者への絶対服従が前提であるから、看護婦の組織における個人の判断や個人の自己決定など存在し得ない。権威への絶対服従を美徳化した忍耐の強要と、女性の閉鎖社会を許容していた社会体制や医療制度にも問題が隠されている。
戦後、昭和23(1948)年に制定された保健婦助産婦看護婦法(現在の保健師助産師看護師法)によって看護の高等教育が始まったが、目上や男子を敬う文化規範に支配され、医師に対して忠実に奉仕的に働くことが美徳とされ、看護者の道徳的行動として期待されていた1)。このような倫理観にあっては、組織において個人が自己決定をし、看護師が自律的に行動するなど成し得ない。医師に看護の教育を委ねざるを得なかった我が国の看護教育においては、医師の期待する盲目的に従順な看護師像が形成されてしまう。
このような背景においては、看護師の自己決定や、患者の自己決定を支援する思考は生まれない。その後の医療の発展により、看護師の組織における個人の自己決定が重視されてきたのである。
引用・参考文献
1.森田敏子、岩本テルヨ:看護と生命倫理、熊本大学生命倫理論集1 日本の生命倫理 回顧と展望、286~309、九州大学出版会、2007.
2.平野重誠原著、小曽戸洋監修、中村篤彦監訳、看護師研究会翻訳・訳注:病家須知、農村漁村文化協会、2006.
2.看護学教育における倫理的課題
熊本大学医学部保健学科 前田ひとみ
看護学教育は看護学とは何かを学問的に学ぶことと同時に、高い実践能力をもった看護職者を育成する責務を負っている。看護職者の場合、看護基礎教育を卒業し、看護師国家試験に合格したと同時に、臨床現場で実践力となって働くことが求められている。看護実践能力の育成をめざした看護学教育においては、学内演習・学内実習・臨床実習が不可欠であるが、これらには看護学生や患者に対する多くの倫理的な課題が内在しており、看護教員はさまざまな倫理的ジレンマに遭遇し、その対応をせまられる。
生命倫理学の基本的規範として「無危害」、「善行」、「自律」、「正義」の4つの原則がある。これらの4原則を看護職者の育成に適用するとき、教育上のジレンマが生じる。それは看護学は実践の科学であり、看護職者としての実践能力を高めるには、患者への直接的なケアの体験が欠かせないからである。しかし、知識・技術の未熟な看護学生が患者に接しケアを行うことは、患者に大なり小なりの身体的・精神的・時間的負担が生じることを余儀なくさせる。看護学生の実践能力が向上することは将来的には患者にとって利益をもたらすかもしれないが、今、ここにいる患者に対しては必ずしも利益をもたらすとは限らない。患者の自己決定権を尊重するにあたって、医療専門職者には義務ともいえる“人々に危害を加えてはならない”という「無危害」の原則を厳格に適用することによって、看護学生の臨床実習での経験の場は狭められてしまう。
近年、自己決定権の尊重から、医療現場ではさまざまな場面で同意書が組織的に義務付けられるようになってきた。看護学教育においても、学生が受持ちとしてケアを提供することについて、同意書を取り交わすようになった。しかし臨床現場の状況は刻々と変化するために、予期しない状況で学習に適切な場面に遭遇することがある。このような場合、これまでは看護学生のケアに関しては、その場で患者に説明し、了解が得られればケアを実施することができていた。しかし、施設によっては事前に患者の同意が得られていなければケアすることができないという状況が生じている。また、患者のプライバシーや個人情報を守るという観点から実習記録等も処分の対象となり、学生の手元に残せなくなってきている。看護職者としての成長過程において実習経験の振り返りと吟味は重要な意味を持つが、経験をもとにした学習の機会も奪い取られかねない状況になっている。
医療という組織と看護学教育の中で生じる倫理的課題に対して、解決に向けた模索が続いている。
3.患者の自己決定と看護者の役割
―アドボカシー(advocacy)は新しい看護の役割になり得るか―
山口県立大学看護栄養学部看護学科 岩本 テルヨ
1960年代アメリカで始まった公民権運動や消費者運動は患者の権利運動に発展し、その中でインフォームド・コンセントは患者の権利の柱と考えられ、意思決定における患者の自律性が強調された。これはそれまでの医療におけるパターナリズムに変更を迫り、患者の自己決定を支援することは、医療者の役割義務として考えられるようになった。患者の権利意識が高まる中、1960・1970年代のアメリカの医療・看護の論文に看護アドボカシー(nursing advocacy)という用語が登場し始め、看護は新しい役割としてアドボカシーの概念に注目したことが伺える。Kosikはアドボカシーこそは「看護職の今後の希望」といい、Donahueは「アドボカシーという看護の使命」と述べ、アドボカシーを看護の新しい旗印として掲げている。わが国においてその概念が大きく取り上げられたのは、やや遅く1996年の日本看護科学学会におけるシンポジウム「新しい法律・制度と人権―当事者のアドボカシーの視点からー」からといわれる。こういった状況の中で、国際看護協会(ICN)、アメリカ看護協会(ANA)は相次いでその倫理規定に患者の権利擁護を入れ、わが国でも2003年に倫理綱領を改訂し、第4条に「看護者は、人々の知る権利及び自己決定の権利を尊重し、その権利を擁護する」の文を入れている。
わが国において看護におけるアドボカシーは、主に「患者の権利擁護」と訳される。アドボカシーの意味内容の中心には患者の自己決定の支援がある。アドボカシーは、看護専門職の果たすべき役割を象徴する理念の一つとして広く受け入れられつつあるが、一方でアドボケイトとしての看護者の見方に疑問を呈する声もある。アドボカシーは新しい看護の役割になりうるのであろうか?
看護におけるアドボカシー実践の課題の一つに、アドボカシーの意味内容の多義性がある。例えば、権利擁護、患者の主張や利益の代弁、患者の権利擁護と決定支援、患者の実存的状況に相互作用的に関わる全体論的ケア等と論者によって様々である。そのため看護において統一的な見解に至っておらず、具体的な方法論を開発するのを難しくしている。さらに、医師・看護師関係の現状、アドボケイトの役割が体制内にいる看護者にとれるのか、マターナリズムの危険性、看護者の倫理的感受性・判断力、職場環境 等など多くの疑問・課題がある。それでは、看護者にアドボカシーを担う可能性はないのであろうか。この点について、わが国におけるアドボカシーに関する研究結果や看護の持つ特性・専門性を手がかりにして考えてみたい。わが国における看護者のアドボカシーに関する意識、実践の現状を踏まえ、看護者にはどのような形でのアドボカシー実践が可能かを考察する。