シンポジウム「徹底討論・自己決定1:哲学と法の視点から」抄録

 

法的観点から見た、自己決定の意義と限界     (稲葉一人)

 

1 法的基礎付け 近代法の大原則である、個人の尊重に発する、自己決定の法理は、どのような射程を有するのであろうか。まず、わが国の法の下では、自己決定は当然なのであろうか。明示的には、憲法に規定はなく、民法に「個人の尊厳」が解釈基準となるとされているだけである(民1条2項)。そもそも、法(特に民法)は、判断能力のある個人が、経済的取引において、十分な情報を得て、冷静に、財の分配をする際を考えて、組み立てられている。

2 自己決定の架空性 しかし、これは架空である。例えば、私たちは、高額のテレビを購入する場合に必要な情報を十分に収集して判断をしているだろうか、評判や広告だけを見て、判断しているではないか、結婚をする場合に、相手のことをどれほど知っているだろうか、また、一人で判断しているだろうか、自動車を購入する際に、ディラーの専門的情報を信頼せず、判断などできないのではないか。

3 医療上の決定から見える、自己決定の限界 そこで、現在、もっとも議論のある、医療上の決定の場面に置き換えると、自己決定原理は、多くのまだ解決されていない問題、それは、あたかも自己決定の「内在的な制約」あるいは「外在的制約」という限界問題を有していることがわかる。

(1) 判断の資格 医療上の決定は、「認知症」「精神障害者」「未成年者」「緊急」の方にも求められる。そこでは、「判断能力のある」という判断は、誰が、どのような基準で行うのか。もし「ない」と判断されると、「自己」が決定しない、第三者の「代理」「代行」判断となる。

(2) 家族の位置 医療上の決定は、「個」が、一人で判断するしかないのか、家族の意思は医療上の決定にどのような「正当」な役割を与えられるのか。家族は、患者の情報を知らされるべきなのか(個人情報保護法上の第三者提供)、現実の医療では常態である、家族の判断に基づいて、医療者が医療行為を進めていくことは「自己」決定といえないではないか。

(3) 専門家の位置 医療上の決定への、専門家(医師)はどのような権限を有し、果たすべきなのか。単なる情報提供者にすぎないのか、それでいいのか。

(4) 事前の決定 医療上の決定を事前に行う(アドバンス・ディレクティブ)は、将来に自己が置かれる状況(人工呼吸器をつける)を想像し、一義的に決めることができるのか。事前の自己決定が、その際の「自己の(本当の)希望」と一致しないことがあるのではないか。

5 自己決定は決定者を幸せにするのか そして、そもそも、自己決定原理は、正当化の根拠であっても、それが決定者本人に本当によい医療上の決定を導くものといえるのか。つまり、本人が決めることが本人のためになるというのか、結局本人が決定するしか、仕方がないというのか。そして、私は誰かに判断を委ねる、決定の前提となる情報を知らなくていいという、「自己決定」は許されないのか。

これらの、まさに自己決定の基礎ともいうべき問題を、法(解釈)や、最近の判例の説示(エホバの証人最高裁判決、家族への告知の最高裁判決、川崎協同東京高裁判決等)を引きながら、議論の共通土俵を作りたい。

 

 

 

          合理性と自己           (信原幸弘)

 

 他人に危害を加えなければ、どのようなことでも他人に干渉されずに自分で決定してよいのではなかろうか。このような自己決定権の考えは、かなり多くの人にとって認められるべきことであるように思えるだろう。しかし、他人に危害を加えるというのはどのようなことなのだろうか。どんな行為がそれに当たるのだろうか。電車のなかで化粧する人は他人に危害を加えているのだろうか。自己決定権を認める人は、行為の自己決定において比較的少数のことがらしか考慮しない傾向があり、それゆえ他人への危害を比較的狭く捉える傾向があるように思われる。自己決定権を認めない人は、その逆であろう。

 そうだとすれば、そこからうかがえるのは、自分で決定した行為、つまり自律的な行為と言っても、さまざまな種類のものがあるということである。じっさい、われわれはたとえば、複数の選択肢を慎重に比較考量して意思決定を行い、それに基づいて行為することがある。また、こうした熟慮的な行為ではなく、朝の歯磨きのような習慣的な行為や、気に入ったものをすぐに買ってしまうといった衝動的な行為も、自律的な行為である。さらに、意思の弱さ、つまりすべてのことを考慮して意思決定しながら、その決定に反して行為する場合も、自律的な行為でありうる。

 このように自律的な行為にさまざまな種類のものが存在するのは、われわれがもっている意思決定システムとして、直観的なシステムと理性的なシステムのふたつがあるからだと考えられる。直観的な意思決定システムは、関連することがらを無意識的に考慮に入れて直観的にすばやく意思決定を行うのに対し、理性的な意思決定システムは、関連することがらを意識的に考慮して合理的な推論によって意思決定を行う。

 直観的な意思決定システムは、理性的なシステムからまったく独立に機能することも、またそこから何らかの影響を受けることもある。それに対して理性的なシステムは、とくに価値評価に関して直観的なシステムにつねに依存しつつ機能する。直観的なシステムと理性的なシステムの間には、さまざまな種類の相互作用がありうるが、この多様性が自律的な行為の多様性をもたらすと考えられる。自律的な行為の多様性を考慮に入れると、自己決定権を一概に認めることも、逆に一概に否定することも、適切ではないであろう。

 

 

 

      賭けとしての自己決定−終末期医療を考える    (高橋隆雄)

 

本来、自己決定とは不確実な状況下で自らの責任のもとで行うものであり、賭けの一種とみなすことができる。スーパーコンピュータと異なり、少なくとも人間の処理能力から考えて、不確実性の要素は現代社会においてますます増大しつつあり、「賭けとしての自己決定」という捉え方は決して奇異なものではない。今回の発表では、自己決定をこのように捉えることで、自己決定にかんするいくつかの問題に対して、従来とは別のアプローチを示してみたい。

まず、賭けとしての自己決定は、医療の現場での決定の実情に近いといえる。なぜならば、情報を提供すべき医療者の側も実は不確実性の内にあり、患者あるいは家族による決定は、必然的に不確実な状況下でなされるからである。しかも、生命に関わる重大な決定がしばしば要求されており、まさに賭けにふさわしいと言える。医療における自己決定とは、複雑性、不確実性を伴い生死や健康に関わる場面で、限られた知識と時間という制約のもとで、医療者とともに賭けることによる、両者の責任の引き受けであると言える。

また、ロールズは賭けを「純粋な手続き的正義」の典型例として挙げているが、賭けと「手続き的正義」との関係の考察は、医療の現場にも妥当するだろう。医療現場での決定を手続き的正義の枠組みで考えると、インフォームド・コンセントや適切な治療やケア等が手続きのうちに含まれる。それらが十分に整っていれば結果は甘んじて受けるというのは、まさに手続き的正義の考え方である。ただし、結果の良し悪しは一般に自明であり、不完全な手続き的正義という特徴をもつ。しかし、終末期での決定においては、適切な手続きのもとで自らが選んだ死に方で死ぬということ自体が「賭けで得るもの」でもある。つまり、賭けること自体でもって賭けは成功しているように見える。これは「純粋な」手続き的正義に接近するものであり、賭けとしての決定の特徴が端的に現れていると言える。

賭けとしての自己決定という概念の背景には、不確実な状況下で賭けることに自由が存するという考えがある。これは必然性とも両立する自由である。さらに言えば、この世での行為にもっぱら関わる自由よりも、運命や偶然と接する賭けのほうが根底にあると考えられる。すると、奴隷になる自由は存在しないかもしれないが、命を失うことへの賭けは存在しうるのではないだろうか。終末期での自己決定への批判としてしばしば登場する「命を失う自由のパラドクス」は、賭けとしての自己決定概念によって回避できるのではないだろうか。