「自己決定」の系譜と展開     小柳正弘(琉球大学)

 

 こんにち、「自己決定」という理念は、医療の現場をはじめとする社会のさまざまな領域において、主要な規範原理のひとつとみなされている。しかし、自己決定が原理的にどのようなことを意味しているのかということは、理論的にも実践的にもかならずしも明らかではない。−−「自己が決定する」とか「自己のことを決定する」といったことは一体いかなることなのか。そもそもそこにおける「自己」とはいかなるものなのか。自己決定はどのような主体や客体を前提にしてもとめられるべきものなのか。自己決定と他者はどのようにかかわるべきなのか。−−このような疑問に自己決定の現実をふまえて端的な解答をあたえることはむずかしい。

 これは、ひとつには、「自己決定」が諸領域それぞれの課題や必要に応じていわば実践的にさまざまに受容されてきたからということもあるけれども、もうひとつには、「自己決定」概念が、自由をめぐるこれまでの議論を反映してさまざまな問題や対立をいわば理論的にうつしだしているからではなかろうか。「自己決定」ということが社会の規範や個人の倫理として注目されるようになったのは二〇世紀半ばからであり、それ自体の歴史はかならずしも古いものとはいえないが、それに通じる考え方は自由をめぐる伝統的な議論のなかに種々みいだすことができる。

 自己決定とはいかなるものかという問いは、一方で、「自己」のありようを問うものであり、他方で、「決定」のありかたを問うものである。決定における「主体としての自己」や「客体としての自己」はどのようなものであるかということが、たとえば「意志」や「自己意識」とのかかわりで問われてきた。さらに、歴史をふりかえっても、また現在においても、ここでいう「自己」は、「私」のこともあれば、「私たち」のこともある。意志の自由、行為の自由、自律、といった自由に関する諸概念は「決定」のさまざまなありようを示している。自由をめぐるもろもろの議論が、決定の主体でもあり客体でもある自己のさまざまなありようとからみあって、広汎な「自己決定」の問題圏を構成している。

 そこで、私の発表では、思想史をいくらかさかのぼって、自己決定という考えかたが、自由のありようにかかわるどのような問題や対立に通底しているのかということを探索するとともに、こんにちの自己決定の理念と現実を瞥見することで、「自己決定」の系譜と展開を素描してみたい。

 

 

 

アメリカ生命倫理における自己決定論の系譜 香川知晶(山梨大学)

 

 本報告では、1975年から76年にかけて米国ニュージャージー州で争われたカレン・アン・クインラン事件を手がかりとしながら、アメリカ生命倫理における自己決定論の系譜の一端を明らかにしたい。

 クインラン事件は娘カレンの人工呼吸器(レスピレータ)撤去を求めて父親ジョゼフ・クインランが起こした裁判で、アメリカでは「死ぬ権利」を求めた初の裁判として有名となる。裁判の進行とともに人々はカレンのような状態になったとき、どのようなことが起こるのかを知ることになり、事件は「アメリカ人の共通の経験」(マーク・シーグラー)となったとさえいわれる。これは、日本でも、「尊厳死」を求めたカレン裁判としてよく知られているものだろう。

この裁判では、今日から見ると奇妙なことに、原告側は当初、カレンは脳死で医学的にも法的にも死んでいるという理由をもって、レスピレータの撤去を正当化しようとした。もちろん、カレンは脳死であるという主張は明らかな誤りである。そのため、原告側は被告の州当局や医師病院側の法律家たちから厳しい批判を受け、法廷戦略を転換せざるを得なくなる。そこで登場するのが、プライバシー権であった。

原告側は、特に第一審の事実審理の中で、米国におけるプライバシー権の展開を辿りながら、治療停止の根拠がこの権利にあることを何とか示そうとして、弁論を展開した。その苦心の弁論は、第一審では退けられたものの、「おそらく、この[プライバシーの]権利はきわめて包括的で、一定の状況下での医学的処置を断る患者の決定をも含むのである」という19763月のニュージャージー州最高裁の判決を引き出すことになる。それは、1973年の連邦最高裁ロー対ウェイド判決の「この[プライバシーの]権利はきわめて包括的で、妊娠を終わらせるか否かについての女性の決定をも含む」という文言をそっくり引き継ぎ、プライバシー権を拡張し、治療の拒否権に初めて明示的に結びつけた判決であった。こうして、クインラン事件はアメリカにおけるプライバシー権概念の展開を考える際に逸することのできない重要性をもつこととなった。

 シンポジウムでは、こうしたクインラン事件において原告側がいわば窮余の策として展開した弁論を基にプライバシー権の歴史的概観を行うとともに、この事件がもたらした概念の拡大に含まれる問題点を指摘する。

 

 

 

自己決定とプライバシー:ヒト胚試料の法的地位を手がかりに

                    奥田純一郎(上智大学)

 

 本報告では、ヒト胚試料を用いた研究の可否を手がかりに、自己決定権という理念、とりわけ「プライバシー」概念と自己決定権の関係を検討する。

 ヒト胚試料は、再生医療の切り札と期待されるES細胞の供給源となる他、生物としてのヒトの発生メカニズムを研究するのに不可欠であり、他の物で代用できないため、その研究上の重要性は言うまでもない。他方、こうした研究上の必要性の大きさに比例するように、倫理上の懸念も大きい。

研究倫理において最も重要視される原則は「被験者本人の同意」である。というのも、研究では医療の場合と異なり、本人に利益がもたらされる事が必ずしも期待できないため、自己決定権に由来するこの原則が優越的な地位を有する。そして自己決定権は「本人の私事(プライバシー)に属し、他人に影響を与えない事柄については、その人のみが決定権を有する」という、いわゆる侵害原理を前提にしている。こうして自己決定権はプライバシーの観念と表裏一体をなしてきた。

しかるにヒト胚試料を用いた研究で、問題とされるべきプライバシーとは、誰の・どのような内容のものであろうか?ヒト胚は母体内に戻せば独立の人となるべき存在であり、これ自体が既に一つの人格としてプライバシーを有するともいえる。この立場を取らないならば、結合して胚になる前の精子・卵子の提供者のプライバシーに属する事になろう。しかしこの場合も、胚に伝えられた遺伝情報は精子・卵子提供者に留まらず、それぞれの一族全員にとってもプライバシーに属するといえる。一体誰が「被験者本人」として「同意」を与えることができる者となるであろうか?

本報告では、近時の情報科学技術の進展に伴い、肥大化しつつあるプライバシーの観念を再検討し、自己決定権との関わりで問題となるプライバシーの内容と射程を吟味すると同時に、自己決定権そのものの意味を問い直すことを試みる。そうした原理的考察を経て、再び「ヒト胚試料を用いた研究の可否」という具体的論点についての回答を模索する予定である。