報告書「アンケ−ト調査に基づく道徳意識の諸層の研究」要旨
目次
第1章「本書におけるアンケ−トと統計的手法について」
第2章「意識調査に基づく倫理学の理論」
第3章「われわれはどれだけ自己を理解しているか」
第4章「他人に危害を加えなければ何をしてもよいのか」
第5章「いじめについての解析」
第6章「自然・家庭・その他」
第7章「自己決定の時代にむけて」

 以下の報告書要旨に関心を抱いた方は、この報告書を基にして執筆した下記の拙著を読んでみることお勧めします。

  ・『自己決定の時代の倫理学:意識調査から倫理的思考へ』(九州大学出版会2001)

 

報告書「アンケ−ト調査に基づく道徳意識の諸層の研究」要旨

熊本大学文学部人間科学科・教授   高橋 隆雄

 

 これは、平成8年度から10年度の3年間にわたる、文部省科学研究費補助金による調査の報告書です。この報告書に記された研究は「倫理学の新しい方法」への模索です。この方法による倫理学は社会学に類似する面を持つことになりますが、「である」(現状認識)だけでなく「べし」(正しい行動や政策の吟味)にかかわる倫理的思考を扱う点で、また倫理学的仮説を形成したり裏づけたりする点で倫理学の領域に属します。私の知るかぎり、これは哲学者や倫理学者がこれまで本気で試みたことのないものです。この方法のめざすところは現実の問題解決に役立つ倫理的思考であり、個人における思考はもとより、各種の委員会や審議会においても有効な方法として期待できます。

 本報告書では、まず倫理学の新しい方法の理論的基礎づけを述べ、次に、その方法の実際への応用例として、教育をめぐるいくつかの問題を通して近い将来の日本の歩むべき方向を示唆してみました。

 調査対象は、中学生、高校生、大学生で、総計6000名以上に及びますが、この報告書では、主として高校1年生のデ−タ(熊本県内11校、愛媛県、神奈川県各1校、都立高校5校の計3600名)を使用し、適宜その他のデ−タを用いています。アンケ−トの設問は36問で、内容は友人関係や家族の状況、子供のころの愛情、環境やボランティアへの関心、自然への関心、生活の充実度、いじめ・いじめられ経験、シンナ−吸引や援助交際への意見等、多岐にわたるものです。

第1章「本書におけるアンケ−トと統計的手法について」

 ここではサンプリングや基本的な統計処理の手法の説明とともに、アンケ−ト調査等の調査と現実との関係を述べています。科学哲学においても「事実の理論負荷性」ということが主張されているように、絶対的に客観的なデ−タなどはなく、あらゆるデ−タは理論に浸透されています。このような状況とともに、人間というsubject を調査の object にするという困難が意識調査にはつきまとっています。こうしたことを踏まえつつ、「部分を全体の中で」「現在を歴史の中で」とらえる姿勢でデ−タに対処すべきであることが主張されます。これは、安易なデ−タ処理への戒めでもありますが、現在の社会の現状を知るために不可欠な姿勢です。

第2章「意識調査に基づく倫理学の理論」

 倫理学のひとつの有力な立場は現実の(われわれの)道徳感覚や価値観をベ−スにして倫理規則の正当化をしたり、倫理規則どうしの対立を解決するというものです。ここには、倫理規則とわれわれの実践的営みとが互いに規定し合い、相互依存的な仕方で関係しているという考えがあります。私は、こうした立場にとって有効な方法論を確立したいと考えています。この章はその試みです。

 このような方法論なしでは、往々にして倫理学的主張が不変の原理からのトップダウン方式でなされてしまいます。その結果として、事実や現行の法律を重視する人々からは、善悪や価値にかかわる倫理学的な主張や提言はドグマに基づくものとされたり、単に「主観的」とみなされがちです。私の狙いは、倫理的な思考や主張をできるだけ客観的なものにして、具体的な倫理的問題の解決において倫理学の果たす役割を本来あるべきものにしようということにあります。ただし、現場での具体的問題を重視するボトムアップ的な方法は、倫理的な問題どうしの連関を把握できないという欠陥を持っています。

 私の提唱する方法は、トップダウンとボトムアップの総合であります。これは、われわれの道徳感覚や価値観をその背景となる政治・経済・科学等との連関のもとに把握し、それによって倫理学の理論・原理を検証するとともに、理論や原理の考察に基づいて道徳感覚や価値観とを批判的に捉えるものです。こうしたことを遂行するひとつの有効な方法として意識調査等の調査が考えられます。また、このようなトップダウンとボトムアップとの総合は、J.ロ−ルズの主張する「内省的均衡理論」を具体化したものであり、日本思想との関連で言えば「からごころ」と「やまとごころ」の総合とも言えます。

第3章「われわれはどれだけ自己を理解しているか」

 「自己決定」「自己責任」ということがこれからの日本の社会のキ−ワ−ドのひとつになっていくでしょうが、こうした言葉がひとり歩きしないためには、われわれにおける自己決定の現状を知っておく必要があります。この章では、高校1年生の実情について、われわれ中年のみならず大学生も、そして当の高校生自身も(ネガティブな方向に)誤解している現状を検証したものです。調査結果を見ての私の第一印象は、今の高校生たちは私が考えていたよりもポジティブに生きようとしている、ということでした。調査してみると、大学生たちも私と同じように高校生たちを誤解していることが判明しました。

 それでは高校生自身は正しく自分たちを理解しているかどうかを調査してみることにしました。具体的には、高校生にアンケ−トに答えさせると同時に同じ高校の同学年の生徒たちの回答を予想してもらい、実際の数値と予想された数値との関係を調べてみました。結果は、私や大学生が高校生に対して持っているイメ−ジギャップと同じものを当の高校生たちも共有していると統計学上言えることが判明しました。こうした誤解の原因はマスコミにあるというのが私の考えです。イメ−ジギャップを作りだすような書き方をしている新聞記事を例示しましたが、マスコミ、特に新聞は人々に現状をできるだけ客観的に伝えることで、自己決定する際の確かな土俵を提供すべきでしょう。自分たちの属する集団のありかたを正しく把握することを通じて正しい自己理解がなされるわけですから、できるだけ客観的な情報なしでは誤った自己理解に基づいた自己決定となってしまうでしょう。

第4章「他人に危害を加えなければ何をしてもよいのか」

 「他人に危害を加えなければ何をしてもよい」という言葉がシンナ−吸引や援助交際の正当化理由にしばしば使われているようですが、この章では「他人に危害を加えなければ何をしてもよい」という原理、いわゆるJ.S.ミルの原理を中心に論じています。

 このミルの原理を支持する生徒たちは、その原理に反して他人に迷惑をかける傾向にあることを、デ−タは語っています。また、個人主義の弊害として従来から指摘されていたようにこうした生徒たちは社会的関心が概して低い、ということがデ−タによって裏づけられます。そして、現在の時点ではミルの原理の支持者は概算すると全体の4分の1から5分の1であることや、そのうちの約半数がポジティブに生きていることも把握されます。

 「自己決定・自己責任」はこのミルの原理と密接に関連しており、これからの10年間ほどは日本の社会にいかにしてミルの原理を軟着陸させていくかが大きな倫理的・社会的問題になると思われます。その軟着陸の仕方について、デ−タに基づいた若干の提言がこの章の後半でなされます。ポイントは、(1)他人に迷惑をかけないという原点の教育、(2)自分を傷つけないことの教育(3)社会的関心を持つようにする教育、(4)大人の子供の違いの認識にあります。

 最後の点に関して言えば、ミル自身、ミルの原理は判断能力のある大人だけに適用できると考えていました。援助交際している生徒によるミルの原理への言及に多くの大人がたじろいでいるようですが、それはこのことを理解していないからです。いずれにせよ、ミルの原理が本来の仕方で機能するためには、自己決定権に関する大人と子供の相違に基づく教育がきわめて重要なポイントです。このことを踏まえた上で、子供の人権や個性化、自己決定権の範囲について論ずるべきでしょう。

 この点を命題として要約すると次のようになります。

「もし、(A)ある社会が、ミル原理の優先するような社会であって、しかも(B)その社会が道徳的に見て望ましい社会である、ならば、(C)その社会では自己決定権に関して大人と子供の明確な区別が存在し、子供には限定された範囲の自己決定権しか認められない。」

 この命題の対偶は、「(C)でなければ、(A)でないか(B)でない((A)でも(B)でもないを含む)」となります。

 (A)でなく(B)である社会とは、ヨ−ロッパ中世のような伝統や宗教の力の強い社会であり、(A)であり(B)でない社会とは、「大きな子供」が充満する社会でありエリ−トによる大衆支配の形態をとりやすく、(A)でも(B)でもない社会とは、独裁制が典型です。

第5章「いじめについての解析」

 いじめの一般理論と学校でのいじめの特徴を挙げた上で、いじめについてのデ−タを解析します。いじめに関する著作は多数出版されていますが、私の論点の新しさは、まず、ひどいいじめをする(した)生徒たちが、行動や関心で極端な傾向を示す「極端性」と、行動・関心においてある項目についてポジティブなら他でもポジティブ、ネガティブならネガティブといった「首尾一貫性」を示すという特徴をもつ傾向にあることをデ−タによって示した点です。そして次に、彼らを5つのタイプに分類した点です。そのタイプの内訳は、ポジティブな生き方かネガティブな生き方か、また、自分が好きか嫌いかを組み合わせて4つに分類したものと、そうした範疇に入らないもの、という計5つのタイプです。

 タイプに名前をつけると、ポジティブで自分が好きな「独善的権力志向タイプ」、ポジティブだが自分が嫌いな「反省を伴った権力志向タイプ」、ネガティブで自分が好きな「幼児的自己中心タイプ」、ネガティブで自分が嫌いな「ルサンチマン(怨念)タイプ」と、それ以外という5つです。それらタイプのおおよその割合は、20%、20%、15%、15%、4つのいずれにも属さないのが30%です。いじめをする生徒を一括して扱うことの不適切さがこうしたことから見てとれます。

 また、ひどいいじめをうけた生徒たちの傾向を探ると、ひどいいじめをした生徒(集団を支配する)、いじめを制止しようとした生徒(集団を批判する)、何事にも無関心な生徒(集団から孤立する)の比率が高いことがわかります。ここから、ひどくいじめられる生徒の傾向として「集団との協調・同調に欠ける」という特徴が浮かび上がってきます。ただし、これで説明できるのは、ひどいいじめを受けた生徒の60%であり、それ以外の40%の生徒たちはたぶんささいな理由からひどいいじめにあったと推測されます。ともかく、「自己決定・自己責任」が強調されつつも、他面では「集団との協調・同調」が生徒たちを支配しているというアンビバレントな状況がここから伺えます。

第6章「自然・家庭・その他」

 倫理学的仮説をデ−タによって検証することは可能であるか、ということに答えようとしたのが第1節です。仮説の例として、ここでは、「自然に対する態度と人間に対する態度とは相関する」ということを取り上げています。もし、この仮説が正しければ、自然を保護する理由として従来挙げられてきた自然の持つ美的、経済的、科学的、レクリエ−ション的価値に加えて、自然を保護することの有力な根拠になるはずです。仮説自体が大きなものですから検証までは行きませんでしたが、デ−タは仮説をサポ−トするものでした。また、ペットは他者というよりも身内であることも判明したりして、「他者」としての自然と人間というテ−マに関してそれなりのおもしろい結果が出たと思います。また、「動植物」が持つ意義が地域(首都圏と地方)によって異なる点についても言及しておきました。

 第2節は、生徒の家庭環境がどの程度彼らの性格形成に関連しているか等を見ようとしたものです。両親、家庭の暖かさが重要な要素ですが、子供のころの愛情不足を祖父母が補っている実情等も把握できました。また、いわゆる「きれやすい」生徒は、いじめをする生徒と同様に一括して扱うことができないのでないか、そして彼らが持つ怒りの中には社会への義憤のようなものもあるのではないか、ということも示唆しておきましたが、紙数の関係上、多くは語れませんでした。

 第3節は、血液型による性格判断が私のデ−タでは検証できなかったことがまず述べられます。そして、そうしたことが流行した背景には、鑑賞者自身が作品と自分の関係や自分の生き方を反省することを要求する現代芸術に典型的に現れているような自己決定の時代の到来に際して、自己そして他者について不完全ながらも知っておきたいという欲求があったと思われます。

 第7章「自己決定の時代にむけて」

 自己決定・自己責任が重視されミルの原理が大きな役割を演ずるであろうこれからの日本において、大人と子供の関係は如何にあるべきかを論じたものです。プラトンが2000年以上前に、自由を至上の価値とする民主制の状況(大人と子供の境界の曖昧化)として述べたことと現在の日本の現状との類似性を考えると、近い将来の日本を考える際に「自由」ということのはらむ問題に行き当たらざるを得ません。これは、第4章と同様の問題意識のもとにかかれた章です。

 私の考えでは、競争原理が子供の中にも浸透したこと、子供が主体的な消費者として存在し始めたことに加えて、自由やそれに類する価値の比重が飛躍的に増したために、大人と子供の境界があいまいになってきています。この境界のあいまいさの中で援助交際のような現象も出現してきますし、犯罪抑止力の低下も生じてきています。そうした境界をあいまいにしてはいけないというのが私の考えですが、そのためには教育制度や地域のあり方を変えていくこととともに、大人の側が、喪失してしまった価値を復活させるか、あるいはそれにかえて新しい大人の価値を追求することが必要でしょう。「老人力」という言葉の流行はそうした価値の追求あるいは復権を求める声の増大を示しているといえるでしょう。いずれにせよ、この問題は、日本や世界の歴史において子供がいかなる地位を占めていたかの考察なしでは考えることができないでしょう。

top