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活動内容

【研究室】2014.6.2.(月) 第1回 熊大人類学映像研究会(名称・仮)レポート/『吸血鬼ノスフェラトゥ』

2014.06.12
  月曜ゼミ終了後、第1回人類学映像研究会(名称・仮)を開催しました。この研究会は、2014年度熊本大学人類学研究室・慶田ゼミ所属学生が中心となり発足しました。慶田ゼミ(文化人類学応用演習)&講座(社会連携22)と連携しています。
 まだいろいろと「仮」ですが、今後充実させていきたいです。
 
[本研究会の目的と意義](仮)
1)インプット: 映像作品を鑑賞し、広く映像の可能性について考察する。
2)アウトプット: 考察の結果を口頭、文章、音、あるいは映像として発信する。
3)成果: 参加者の教養・思考力・表現力を高め、卒業論文や研究活動、表現活動の助けとする。
(※要検討。映画・映像鑑賞がエスノグラフィーの方法論や人類学にもたらす意義をどう探るのかについて、第2回開催時に再検討したい。)
 
 本研究会では映像の可能性として、映像から学べること、表現方法やメディアとしての映像の特質、映像の文化的・社会的意義や影響、映像を使って実際に何がやれるか等を想定しています。映像だからこそできること、映像ならではの表現やコミュニケーションについて、色々なことを考え、発見し、様々な形でアウトプットします。そのために、普段自分ではあまり観ないトピックや地域の映像、社会連携科目22(映画文化史)で紹介された映像、卒業論文に関する映像といった、観る者の知的好奇心を刺激する作品を研究対象とします。
 
[方法](仮)
1)メンバーが選出した作品を各自鑑賞する。
2)作品が制作された時代・社会・文化的背景、監督、製作者、製作方法などについて調べ、理解を深める。
3)参加者全員で作品について議論する。
4)簡単なコメントやレポートを書き、人類学HPやKATに掲載する。
 
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  第1回目の研究対象は、『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響曲』(1922、BS-NHK で2011年に放映されたムルナウ財団所有オリジナル完全版)、ドイツのF.W.ムルナウによって製作されたサイレント映画です。社会連携講座22(映画文化史)で田中先生より紹介されました。田中先生の講座で配布されたレジュメを当日、参加者に配布させていただきました。田中先生ありがとうございます。ストーリーはブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』(1897)をもとに作られています。
  参加者は、ゼミ生6人([3年] 松島、妻瀬、野村 [4年] 片岡、石戸、佐藤)、発案・企画者の香室さん、社会連携科目講師の庄司さんです。おいしいご飯を食べながら、みんなで楽しく意見交換しました。
 
写真 1.JPG  写真 3.JPG
 
<作品>  
『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)
(『NOSFERATU: EINE SYMPHONIE DES GRAUENS』)
NHKBSプレミアム BSシネマ『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響曲』
監督:F・W・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau)
 
 
<あらすじ>
 フッターと妻エレンは、ヴィスボルクの家で仲良く暮らしていた。ある日、不動産屋ノックから、この町に家を買いたいというオルロック伯爵の存在を知らされた。そこでフッターはオルロック伯爵と契約を結ぶため、城にむけて出発する。城でフッターを向かえたのは、不気味な姿のオルロック伯爵であった。フッターはそこで出された夕食を食べ、眠りについた。翌朝目を覚ますと首には2つの傷が並んでいた。最初は蚊に刺された跡だと思い込み、気に留めなかった。寝室で再び眠りにつくと、そこにオルロック伯爵が吸血鬼ノスフェラトゥの姿となって現れる。襲われそうになったちょうどそのとき、ヴィスボルクでエレンの強い霊感がはたらいた。夢遊病でバルコニーの柵の上を歩く彼女は、夫の名を叫んだ。その声に反応してフッターは目を覚まし、ノスフェラトゥの姿が消える。次の日、ノスフェラトゥは船に載せた棺の中に入り、海を渡りヴィスボルクに向けて出発する。フッターはそれを見て、ヴィスボルクへ急ぐ。ノスフェラトゥの乗った船では、次々に船員がペストで死に、船が立ち寄る町でもペストが蔓延する。フッターはノスフェラトゥと同じ夜にヴィスボルクに到着するが、ノスフェラトゥはすでにエレンを見張っていた。ヴィルボルクでもペストが流行り始める。エレンは吸血鬼の書物を読み、純真な心の女性の血を吸血鬼に与える以外に救いはないことを知る。ついにノスフェラトゥはエレンの首筋に噛み付き、血を吸い始める。その後フッターは変わり果てたエレンを抱きしめ、悲しみに暮れる。エレンが犠牲になったおかげで吸血鬼とともにペストも消え去った(田中 2008:108-109)。
 
  
 
<コメント 4年 片岡藍>
 ドラキュラに対して、長い2本の牙を持ち、コウモリの羽のような赤と黒のマントをつけ、夜空を飛び回る、という“カッコいい”イメージを持っていましたが、この映画の主人公ともいえる吸血鬼ノスフェラトゥ(オルロック伯爵)はそれとかけ離れた風貌をしていて驚きました。本作のノスフェラトゥは、とにかく姿勢が悪い!猫背で顔がごぼうのように細く、魔女のように長い指をしています。そして移動の際にはマントではなく船を使い、何日もかけて地道に目的地へ向かいます。そういうところは憎めなくてかわいいなーと思ってしまいました。でもやっぱりその姿は不気味で怖く、映画を見た夜、夢にノスフェラトゥが出てきたらどうしよう…と心配になりました。日本ではあまりなじみがない吸血鬼ですが、歴史などを調べたら奥が深そうです。
 映像のバックには終始オーケストラ音楽が流れており、場面に合わせて音色を変えていくのですが、この音楽は映像無しでも十分作品になるのではないかと思うくらいダイナミックで素晴らしいです。とくに、悪い出来事を予感させる不協和音のメロディーは、不安と恐怖心を煽り、なんとも怖かったです。役者の声がないぶん(セリフは画面に文字で映される)、音楽が登場人物の心情や場面の雰囲気を伝える役割を果たしていたように思いました。役者のオーバーな身振りや表情も、最近の映画には見られないもので新鮮に感じました。今回初めてサイレント映画を真剣に見たのですが、セリフだけではなく、表情や動き、音楽など言葉以外のものも大切な表現方法になり得るということが分かりました。
 
 
<レポート:リスクとしての「吸血鬼」  4年 佐藤睦>
 本レポートでは、『吸血鬼ノスフェラトゥ』に描かれた人々の不安とリスクに焦点を当てる。ワイマール映画研究者の田中は、『吸血鬼ノスフェラトゥ』には女性の犠牲的な愛による救いや、経済的な・性的な面、そして第一次世界大戦後の人々の不安といったテーマが映し出されているという(田中 2008 : 107)。本映画の登場人物たちは、不気味で疫病を具現化したような吸血鬼ノスフェラトゥを恐れると同時に、ペストの流行に直面し、不安に駆られる。実際に1838年にブレーメンで疫病騒ぎが起こったというが、その情景が目に浮かぶようであった。
 まず、私が気づかされたのは、吸血鬼という空想上のキャラクターが、時代や土地によって異なる存在として描かれてきたことである。私が今までにみたことのある映画や本等では、吸血鬼は恐怖や嫌悪だけでなく、畏怖や愛といった感情を表すキャラクターや存在として描かれており、多少なりとも人間的な部分を持ち、同情の余地があった。しかし、本映画の吸血鬼は脅威そのものであり、人々は迷わず吸血鬼の排除を望み、私自身も吸血鬼ノスフェラトゥに同情や親近感を覚えることはなかった。本映画では、私が抱いていた吸血鬼像とは大きく異なる吸血鬼が描かれていたのである。空想上の存在は、ある出来事に対する人々の反応や思いをより強く、より誇張された形で反映しているのかもしれない。この気づきは私にとって非常に新鮮であった。
 次に、吸血鬼の描写と登場人物たちの吸血鬼に対する反応や不安から、リスクを目の前にした人々の反応を垣間見ることができる点が興味深かった。田中によると、「鼠がもたらす疫病は、歴史的にも民衆の記憶の中でも、北欧にその起源をもつものではなく、東方から侵入した恐るべきもの」(田中 2008 : 121)であるという。したがって、本映画の主題のひとつは、外部からやってくる吸血鬼や鼠といったリスクであることがわかる。
 私が一番印象に残っているのは、ノックが吸血鬼に手を貸しペストの流行という悪夢を招いた裏切り者として、住民に捕らえられる場面である。吸血鬼やペストに対する不安の矛先がノックに向けられる場面は、日本におけるインフルエンザ流行の状況を私に想起させた。例えば、2009年に新型インフルエンザが流行し、日本国内にウイルスが侵入した際、当時カナダから帰国しマスク着用を徹底していなかった高校が「無責任」だと非難された事件である。日本におけるマスク着用の習慣を研究している堀井は、「ウイルスを国内に侵入させた責任は、マスク着用というお守りを着用しなかった、いわばタブーを犯した者たちの罪として科せられる」(堀井 2012 : 224)と指摘する。どちらの事例でも、リスクが現実の危険になったとき、タブーを犯し危険を招いた者が責められている。
 ただし、新型インフルエンザの事例では悪意はないが、ノックの場合は悪意がある、あるいは故意の行為であった。その点を考慮すると、新型インフルエンザで非難された高校と同じ立場にあるのは、ノックではなくフッターなのかもしれない。この点についてはさらなる分析が必要だが、ノックと日本における新型インフルエンザの事例は、疫病の侵入を共同体の内側へ招くというタブーを犯した点で共通しており、疫病の侵入を招いた者を共同体の住人が責め立てる構図が似ていることが指摘できるだろう。
 このように、本映画を観て、吸血鬼という空想上の存在を読み解くことで、疫病のようなリスクへの対処の仕方や捉え方を窺い知ることができた。また、本映画は時代や監督の背景を反映し、ある状況における人々の反応が映像として記録されているため、その時代におけるリアルな情景を知ることができる。
 
(参考文献・資料)
田中 雄次
 2008 「第3部 ドイツ国民映画の展開とその作品群」『ワイマール映画研究―ドイツ国民映画の展開と変容―』pp.71-152、熊本:熊本出版文化会館。
 2014 社会連携科目22(映画文化史) 配布資料 (担当:田中雄次先生、5月8日)。
堀井 光俊
 2012 『マスクと日本人』東京:秀明出版会。
 
 
<佐藤レポートへのコメント 香室>
 吸血鬼というリスク(危険)自体ではなく、リスクを共同体の内側に入れてしまったものが責められるという指摘が面白かった。この映画では、ノスフェラトゥは結果的に疫病をもたらすけど、お金を与えてくれるかもしれない存在として描かれている。つまり、両義的でリスキーな存在であり、どれ位危ないのかが最初から分かっているわけではない。「無責任」な感染者(罪人)は被害者でもあるはずなんだけど、リスクへの対処の仕方を間違ったためにその倫理観を責められ、悪意の有り無しに関わらず有罪とされたのではないかと思う(ちょっと、Mamdani のWhen Victims Become Killers を思い出した)。ノックはこの典型かもしれず、対してフッターはヒロインの愛(倫理観?)の助けにより「目覚めた」ために、責めを免れている。吸血鬼(=リスク、疫病、病原菌)は擬人化されているとはいえ人間ではない=倫理観が通用しないので、責めることが不可能・無駄ということなのかな。捕まるとかではなく、ヒロインの絶対的愛(倫理観?)によって駆除されている。
 本作において吸血鬼(リスク)は魅力的だけど絶対的に拒まねばならないものであり、人々に倫理や責任を暴力的に突きつけるなにかなのかなと思いました。ヒロインもまた吸血鬼に惹かれていたことは、「宿命的な引力」(田中 2008:113)として田中先生も指摘していたと思います。
 
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[『吸血鬼ノスフェラトゥ』に関する参考文献]
田中雄次
 2008 『ワイマール映画研究―ドイツ国民映画の展開と変容―』pp.108-109、熊本出版文化会館。
 2006 「ハリウッドの野望とドイツ国民映画の変容」熊本大学社会文化研究 4:67-90。
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(記事と写真:研究会メンバー)

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