慶田研究室ニュース

【研究室】2017年度 卒業論文発表会(2018.2.8-2.9)

熊本大学文学部社会人間学コースの卒業論文発表会が行われました。文化人類学ゼミからは5名が発表しました。当日は、発表者、コメンテーターを務めた3年生も緊張感を持って発表会に臨むことができました。発表者のみなさまお疲れさまでした。(3年)


【発表者・題目・概要】※発表順
◆増成晶子(慶田ゼミ) 
『四国八十八箇所霊場と遍路道』における徒歩巡礼は宗教的なのか?
 
 本稿では、「四国八十八箇所霊場と遍路道」における徒歩巡礼は、宗教的なのかという問いと、徒歩という巡礼手段そのものに宗教性はあるのだろうかという点について考察した。
 世界遺産登録にあたり物による登録が困難となった結果、徒歩巡礼が注目され、それが伝統的かつ本質的な巡礼として提示された。
 しかし残された資料から四国遍路の記録を学術的にさかのぼれるのは江戸時代中期までであり、伝統や苦行性との関連性を四国遍路の伝統や本質として証明するのは困難であることが分かった。
 では徒歩という手段そのものに宗教性はあるのか。日本文化における「過程尊重」の価値観の強さ、「ハレ」と「ケガレ」の概念に注目すると、利便性ではなく不便さを敢えて買うことで得られる徒歩に対する特別感は、宗教性と呼べると考える。
 以上から「四国八十八箇所霊場と遍路道」における徒歩巡礼の宗教性は、世界遺産登録を目指す過程で意図的に作られたストーリーであったかもしれないが、徒歩巡礼の持つ宗教性それ自体は証明できると考える。四国遍路は、徒歩巡礼が創造された宗教性であったがゆえに、徒歩という動作それ自体の価値を喚起する資産として世界遺産にふさわしい資産価値がある。

 

◆高貝尚伽(慶田ゼミ)
二つのゲド戦記―ア―シュラ・K・ル=グウィンと宮崎吾郎の比較―

 本稿で対象とする宮崎吾郎監督の初監督作品「ゲド戦記」は、観る人によって評価に大きな差があり、さらに原作者のル=グウィンからも厳しい批判がなされた。
 実際にル=グウィンが伝えたかったことは何だったのか。映画に対する彼女の批判は妥当だったのか。映画は彼女が作品を通して伝えたかったことをゆがめて作られたものだったのか。この問いを考えることが、ひいては自分にとっての文化人類学と、ゲド戦記と文化人類学の関係性について考察することにつながる。
 原作者は、物語を通して結果よりも成長の過程を重視し、自ら「旅」を経験し、新しい生き方を「獲得」する意義を伝えようとした。しかし映画では、過程の部分で物語の本質を崩しかねない大きな変更をなされた箇所がいくつかあり、映画はあくまで宮崎吾郎監督の「ゲド戦記」となっている。
 その変更部分は、あくまで宮崎が当時の日本社会の現状を鑑みて変更した部分だったが、ル=グウィンは「ファンタジーを社会、政治といった概念から説明することはできない」という思想を持っており、ここでも齟齬が生まれている。
 しかし、映画は批判される点がないわけではないが、完全にゆがめて作られたわけではないと考える。宮崎も当時の日本社会を見据えたうえで、新たな生き方を見つめるきっかけを与えようとした点は、原作者の姿勢に通じるといえる。
 また、文化人類学は、「自らの人生の選択肢を広げるために今まで触れたことがなかったものに触れ、新しい気づきへと導く学問」であり、「旅」と「獲得」が重要になる学問である。よって、ゲド戦記と文化人類学には深い関係があるといえる。

 

◆堀池さん(慶田ゼミ)
料理とは何か―レヴィ=ストロースの『生のものと火を通したもの』から考える

 本稿では「生のものと火を通したもの」を対象にする。私たちが日頃口にするのの多くは、料理されたものである。
料理は身近で日常的なものであるが、改めて論じようとすると明確に定義するのが難しいことに気づく。
 料理について書いてある本として紹介されているレヴィ=ストロース(以下、L=S)の神話倫理「生のものと火を通したもの」を初めて読んだとき、
筆者は料理の本として読み解くことができなかった。この本が示す「料理」に筆者が抱いた違和感は何だったのだろうか。
 この問いに答えるために「生のものと火を通したもの」を読むことを通じて、L=Sが神話倫理の概念を用いて人間の精神構造を解明しようとしたことを踏まえ、それまで筆者にとって「当たり前」であった料理の捉え方を浮き彫りにする。
 改めて筆者自身の料理観について考えると、食材の切り方や組み合わせなど技術の面に重きを置いていることに気づいた。つまり「料理とは何か」という問いを持って「生のものと火を通したもの」を読んでいた。L=Sは料理を通じて「人間精神とは何か」という謎を解き明かそうとしていた。
 L=Sの考え方を踏まえ、料理にその概念が重要な位置を占めることは納得できた。「生のものと火を通したもの」の読解を通して、人類学的な「再帰性」の実践を行っていたのだ。

 

◆笠見さん(慶田ゼミ)
熊本地震と贈与

 本稿では熊本地震と東日本大震災の事例を対象に、災害時における支援のありかたを考察する。
2016年4月に発生した熊本地震の際に、支援する側と受け取る側の「思い」が食い違うことにより生じる疑問や不満、特に当然無償の善意として受け取ってもよいと思われる支援に対して受け取る側はどこか「うしろめたさ」のようなものを感じているように感じているように思われる点に関心をもった。
 論文中では、東日本大震災の際に日本でボランティアを行いながら震災と贈与の関係についてフィールドワークを行ったトム・ギル、ブリギット、デビット・スレイターらの著書から事例を2つ、熊本県で初めてNPO法人九州ラーメン党を立ち上げ、震災時には炊き出しを行っている濱田龍郎氏の事例、合計3つを参照する。
 本論文では、M・モースの贈与論を参照し、支援は純粋な贈り物ではなく、返礼の必要な贈り物なのか、支援が、支援者と受け手の間に生じさせる関係性とは何なのか、支援における互酬性とはどのようなものなかを問いとして明らかにする。

 

◆小松さん(慶田ゼミ)
憑依から見る変身の構造とその魅力

 本稿では見え姿を変えること、つまり変身では何が変わるのかという点について考察した。その際、変身と同じように人が変わってしまうとように思える憑依という現象にも着目する。興味深いのは、憑依の場合、身体変化の逆で精神から変わるように見えることである。しかし、憑依は単なる精神的、内面的な変化ではなく、変身の側面も見られる点に筆者は関心を持った。
 そこでまず第一に、憑依の概要とその構造についてはコモロ諸島のユニークな憑依霊たちに焦点を当てた民族誌である花渕の「精霊の子供」(2005)を参考にまとめ、憑依における変身がどのようにして可能になっているのか、その理由について考察した。
 花渕の議論では、憑依に特徴的な一つの身体における複数の人格交代は、ふるまいの主体を複数に帰属させるような文法によるものであるという見解が示された。変身を考える際には、私たちの身体はもともとあるのではなく、分類法を必須の要件として持ち、またこれによって成り立っているという坂部の考えと、自分の身体は全体のうち見える部分同士を創造の糸で縫い合わせた、つぎはぎのイメージとして経験されているという、イメージとしての身体に関する鷲田の議論を主に援用している。
 このことから、変身するという事は、姿を変えることで見え姿のイメージ構成を変更し、周囲の人々やその人自身が、対象に人物の行動に向ける期待や予想の方向性を変えることさと考えた。
 一つの身体に適用されるコンテクストが精霊のものと人間のもので二重化し、あたかも複数の人格が入れ替わるような経験であるコモロの憑依と同じように、変身では実際には不可視の部分を何何のように見える、と適用された何かの文脈の中で行動に意味付けがなされていく。
 つまり、姿を変えるという事は、行動を解釈する起点としてのイメージを変更し、意味付けの方向性を変えることではないかと考えた。すなわち、自己変容の観点からすると、変身と憑依は表れ方こそ違うが分け方の問題という点では同じような事態でもあると結論づけた。

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