慶田研究室ニュース

【日本文化人類学会】11月11日 続編「医療人類学にとってナラティヴとは何か」

日本文化人類学会経由のお知らせです。

2017年2月に開催したシンポジウム「医療人類学にとってナラティヴとは何か」の続編です。
 
開催日時:2017年11月11日(土)10:00~17:00
開催場所:京都大学人文科学研究所4階大会議室
 
※当日の人文研の開錠時間は、正面玄関が9:00~14:00、4階の通路中扉が9:00~18:00となっております。
いずれも外側から入る場合の開錠時間で、内側からはいつでも出られます。
14:00を過ぎて来場される方は080-1461-4671(田中携帯)までご連絡ください。
 
【プログラム】
10:00-10:05 開会挨拶・趣旨説明 田中 雅一(京都大学)・澤野 美智子(立命館大学)
10:05-11:05 西  真如(京都大学)
発表1 「傾聴と看取りのあいだに―大阪市西成区の単身高齢者と向きあう訪問看護師」
11:05-12:05 立木 康介(京都大学)
発表2 「ナラティヴの亀裂、主体の揺れ―精神分析を忘れないために」
13:00-14:00 仲 真紀子(立命館大学)
発表3 「語りを鍛え、誘い、支援する―司法面接の試み」
14:00-15:00 直野 章子(広島市立大学)
発表4 「原爆症認定訴訟における体験の記憶と政治」
15:00-15:30 コメント 高木 光太郎(青山学院大学)・田中 雅一
15:40-17:00 総合討論
司会 田中 雅一・澤野 美智子
 
主催:京都大学人文科学研究所共同研究班「ウメサオ・スタディーズの射程」
事前申込不要、参加費無料
 
趣旨説明(田中・澤野):
 語りは時に、事実を把握あるいは証明するものとして現場での判断基準に用いられ、人の生命や人生を左右することがある。前回のシンポジウム「医療人類学にとってナラティヴとは何か」を発展させる形で、本シンポジウムは語りの正確さがどのように担保され現場で用いられているか学際的に検討する。特に医療の現場を念頭に、医療と司法の世界との対話を試みる。
 医療現場における患者の語り(愁訴)は、医療者が病気を診断し治療方法を判断する上で重要な基準の一つとなる。しかし当事者が語りによって表現するものと、その語りによって第三者が把握するものとの間で齟齬が生じることもある。また、司法の現場における証言や告白は、刑の重さを判断する上で重要な基準の一つとなる。しかし人の記憶は可変的であり、実際に起こっていないことが当事者自身の記憶として書き換えられることもある。
 語りがなんらかの真実を伝えているという素朴な信念は、文化人類学においては喪われているようであるが、いまなお証言や告白が発話者とその社会的世界を理解する上で重要な役割を担っていることは否定できない。実際の現場において、語りの正確さをどのように担保し、どのように信頼して用いているのか。この課題は、語りを研究の俎上に載せている学問の根幹に関わるものである。
 
発表要旨:
発表1 西 真如 「傾聴と看取りのあいだに―大阪市西成区の単身高齢者と向きあう訪問看護師」
 私たちは誰かを看取るために、その人のことをどれだけ知る必要があるのだろうか。大阪市西成区の訪問看護ステーションひなたは、末期がんなどの苦痛を伴う疾患に加えて社会的孤立や経済的困窮といった生活困難を抱えながら在宅で終末期を過ごそうとする単身高齢者を積極的に受け入れている。ひなたの患者には、自らの感情を伝えることや持続的な人間関係を築くことが困難な者も多く、病いへの不安や他者への不信を抱え込みがちである。耐え難い疼痛や息苦しさ、そして死の恐怖に直面する患者をどのように支えることができるのか。終末期看護を実践するうえで、患者の訴えに傾聴し、やり場のない感情を受け止めることは、心身の痛みを緩和する医療介入と切り離して考えるこ とができない。だが患者の語りは、それぞれが抱える葛藤を反映してさまざまに揺れ動いたり、偏ったりする。加えて終末期においては意識の混濁やせん妄はまれではなく、患者の語りを一貫したものとして受け止めることはますます困難になる。患者を理解しようとすることと、患者を平穏な死に導く技術的な過程を実行することとのあいだには、時として深い溝が姿を現すのである。
 
発表2 立木 康介 「ナラティヴの亀裂、主体の揺れ―精神分析を忘れないために」
 精神医学は1980年代に「無意識」(の概念)を捨てたといわれる。米国において、それはただちに「力動精神医学」すなわち精神分析(にもとづく精神医学)の終焉を意味した。だが、精神分析の影響下に発展してきた伝統的な(少なくとも20世紀のメインストリームだった)精神療法的治療文化全般がそれによって被った深刻な打撃は、そうしたひとことでは片づけられない。「無意識」を失うことは、「症状の決定因が見出されるべき不可視のフィールド」という想定だけでなく、「それぞれの症状に固有の意味が宿っている」とするフロイト以来の考え方を、さらには、そのような「症状の意味」を患者が治療者に語る「ことば」を経由して取り戻すという治療の方向性そのものを、拒絶することに等しい。ひとことでいえば、それは心の治療における「語らいの消滅」、「言語の死」にほかならない。もちろん、「無意識」なしで治療できる心的病理(精神疾患)というものも存在するのかもしれない。だが、それらが心的病理の すべてではない。ある症状が患者本人のみならず一社会集団(たとえば家族)全体を巻き込んで、あるいはそれに巻き込まれた結果、発展するような場合、その主体の「無意識」に言語を通じて接近することがやはり欠かせない。それは具体的にどのようなプロセスを辿るのだろうか。ラカン派精神分析の立場から考える。
 
発表3 仲 真紀子 「語りを鍛え、誘い、支援する―司法面接の試み」
 人の記憶は減衰し、変容し、再構成されるものであり、記憶に依存する供述や証言には誤りが生じやすい。とはいっても、司法、福祉、医療、教育等のさまざまな場面において、事件・事故の解決や予防のために、当事者から「何があったのか」を聴取しなければならないことは少なくない。事情聴取は人の記憶に対するチャレンジだといってもよいだろう。ではどうすればより正確な情報をよりたくさん得ることができるのか。ここでは、記憶の可変性やコミュニケーションのあり方に関する研究の蓄積の上に開発され、実務においても用いられるようになった司法面接(forensic interviews)について紹介する。記憶の汚染、誘導・暗示の多くが面接者による質問その他の発話によって起きるということを踏まえ、司法面接では、被面接者に自由報告(free narrative:自由な語り)を促す。本報告では、この司法面接の概要とその実践について報告する。
 
発表4 直野 章子 「原爆症認定訴訟における体験の記憶と政治」
 今世紀に入ってから、原爆症認定訴訟、被爆体験者訴訟、「黒い雨」訴訟といった、原爆被害と被爆者の認定を焦点とした一連の行政訴訟が続いている。訴訟は、放射線被害の可能性を根拠とする被爆者援護制度の枠内で闘われるために、放射線による身体被害の症状が原爆体験として想起され、原爆被害の証拠として差し出されることになった。しかし、原告が証言する身体被害は、被告が提示する「科学的・医学的知見」によって、栄養不足や心理的衝撃の兆候として読み替えられた。争われたのは証言の真偽ではなく、その医科学的解釈であり、法制度運用上の位置づけであった。しかし、医学や法の専門知によって証言が切りつめられたわけではない。裁判闘争の場において、いかなる体験が想起され、語られ、もしくは、語られなかったのか。その際、いかなる政治が作用したのか。原告の証言を検討しながら、原爆体験の記憶が語りとして組織化される際に作用する諸力を描写し、その政治的含意を考察する。

 

ニュース一覧に戻る