熊大に来て最初の5年(1998年〜2002年)の発掘パンフより

2002年夏・沖縄県伊江島ナガラ原東貝塚発掘パンフより

 沖縄という特異な世界に接し始めて今年で5年目。また夏が来たなあと感じるほど、毎年の恒例行事として体に染みついてきた。しかし、今年から本格的に熊本の古墳調査に着手しているから、これからの僕は沖縄から熊本に比重を移すことになるだろう。

 僕が本格的な古墳の調査にはじめて参加したのはおそらく学部3年生の夏だったと思う。大阪府豊中市小石塚古墳の北側周溝の確認調査だ。当時の大阪大学には考古学研究室はなく、そんなこともあって、学術調査が毎年行われるということはなかった。僕がはじめて経験した大学主催の発掘調査は4年生時の京都府鳥居前古墳第2次調査で、それまでは、先生や先輩の紹介などを利用しながら、参加することのできる発掘現場を自ら探していた。小石塚古墳の調査もそうした発掘現場の1つだった。
 この時の調査では埴輪円筒棺が検出された。小石塚古墳に周辺埋葬が存在することがはじめて明らかになった調査として知られている。円筒棺は2基検出されたが、そのうちの1基の発掘をまかせていただいた。でも、発掘調査技術の未熟だった僕は、痛恨のミスをおかしているんだ・・・この時の調査の思い出は数々あるけれど(調査員の方がお忙しかったから、シート上げからシートかけまで1日1人で現場をやったことなんて楽しい思い出)、当時を思い出せばその失敗が真っ先に心に浮かんでくる。『豊中市埋蔵文化財発掘調査概要』1987年度の7頁掲載の第4図を見ればその失敗がすぐわかるだろうけれど、掘り下げることに夢中で、断面に対する注意がまったく欠けていたんだ。途中でハッと気付いたときはもう遅かった。けっして有ってはいけないミスで、今でもとても恥ずかしく、深く僕の心に刻まれている。

 はじめて、あるいは数度目の発掘調査という人は、とっても楽しみであると同時に少々の不安をかかえているんじゃないかな。沖縄という未知の世界、合宿による集団生活、そして何よりも、一度発掘してしまうと遺跡をもとに戻すことはできないというプレッシャー・・・そんな皆さんへのちょっとしたアドバイスです。
  1. めずらしい遺物が出たとしても、喜んで取り上げないこと。原位置をとどめない遺物からは情報が半減してしまいます。とくに2年生。
  2. 視野を広く持ってください。自分が掘っている場所、自分の班だけにとらわれず、周囲の様子をよく見ること。後輩の様子をよく見ること。とくに3年生。
  3. 大学院生は、調査全体を見渡し、終了を見据えた段取りを心がけてください。1つのことに没頭することなく、つねに周囲に気を配ってください。自らの調査日誌をつけること。
  4. 自分に与えられた仕事(それぞれの係の仕事)をこなすことだけで満足しないでください。誰かが作業をしていたら、すぐに気がついて手伝って欲しい。チームワークが大事です。自己中心的な人は発掘調査には向きません。
  5. そうはいっても、学生時代の発掘調査は楽しいものです。敏感なアンテナをつねに立て、発掘調査技術はもちろん、それ以外でもいろんなことを吸収し、何か1つでも心に刻んでくれたらうれしいです。


2001年夏・沖縄県伊江島ナガラ原東貝塚発掘パンフより

 今回、宿舎が変更になるという。3年間お世話になったサンゴ荘から阿良地区の公民館へ。サンゴ荘はとっても居心地がよかったけれど、今度のところはどんなだろうか?

 滋賀県雪野山古墳の調査では4つの宿舎を経験した。調査のたびに異なった宿舎を利用したことになる。その第1次調査の宿舎がもっとも思い出に残っている。だって約2ヶ月間も生活したんだから・・・宿舎は八幡神社の社務所、普段は人のいない小さな建物だった。二部屋しかない。そのうち広い方を男部屋、狭い方を女部屋とした。ミーティングや食事、遺物整理は男部屋を利用して行った。水道はなく山水を引いていて、電気の容量も小さかったからよくブレーカーが落ちる。そのせいで電気釜をやめてガス釜を買いに走ったりもした。宿舎の真下を小川が流れていて、そこからの湿気で布団がいつもジメジメしていた。風呂はなく、社務所から少し離れた人通りのない道路脇に、簡易の風呂ハウスを設置した。電気や水道の関係で、宿舎近くに設置できなかった。風呂ハウスまで真っ暗な道が続くから、女性が利用するときは、男性陣が車で送り迎えし、危険がないか風呂ハウスのそばで監視した。そんなちょっと不便な宿舎だったけれど、そこでの生活やいろいろな作業、他大学の学生との意見交換や見学者への対応で非常に多くのことを学んだ気がする。地元の人との交流も楽しいものだった。松茸やふな鮨の差し入れがあったり・・・また、ふだんは見ることのない先生の様子も観察できる(でも今はこれが怖いけれど・・・)。都出先生の少し腐ったマムシ酒事件なんかは楽しい思い出。

 遺跡を実際に掘り下げ、写真を撮り、図面を描くなどの作業は、発掘調査にあって基本中の基本である。これができないと考古学を学んでいる意味はないから、日中の現場作業を真剣に行うことは当然のことである。それに加えて、伊江島での調査では、宿舎での合宿生活が重要な部分を占める。発掘調査あるいは秋から冬にかけて行う整理作業は、決して一人で出来ない作業であるから、合宿生活は、研究室としてのチームワークを作り上げる格好の場であるし、他人との協調性を磨く場でもある。時間厳守は当然のことである。また、自分に与えられた仕事や先輩に言われたことだけをこなすだけではなく、誰かが作業をしていたらすぐに気がついてほしいと思う。常に周囲に目を向けて、全体の作業のなかで自分は何をすべきかいつも注意を払っていてほしいと願う。自己中心的な人は発掘調査には向かない。

 そうは言っても、合宿生活は楽しいもの(自分がどう過ごすかにかかってはいますが)。せっかく2週間も生活するのだから、思いっきり敏感なアンテナをたてて、いろんなことに目を向けて・・・そうすれば、通いの現場では決して経験できない貴重な時間を過ごすことが出来るはず。うまい酒に出会えるだろうし、新しい出会いがあるかも知れない。

 でも、今年の宿舎ってどんなところなんだろうね?



2000年夏・沖縄県伊江島ナガラ原東貝塚発掘パンフより

 これを書くのも熊大に来て3回目。順を追って書いていこうと考えていたけれど、なかなか今に追いつかないので、今回は、今年で参加が最後になるかもしれない(来年にならないとよく分からないけれど・・・)トルコの発掘について書いてみようと思う。

 場所はトルコ南部の地中海岸、フェティエという町があるけれど、その近くにあるゲミレル島(地図で探してみてね)。この付近一体はリキア地方といって、古代から中世にかけて、海上交通の拠点として大いに栄えたところだ。ゲミレル島は、島全体が遺跡といっても過言でないほど、多くの建物が密集していて、教会がある宗教地区、お墓がある墓域、住宅がある居住区などに分かれている。住宅の間をぬうように細い道が縦横に走り、下水用の土管が何本も海に注ぐ・・・。東西1kmほどの小さな島なのに、1つの都市の体をなす。時期は初期ビザンティン。でも、今は1人の人も住んでいない・・・
 現在私たちは、この島の中心にある第3教会の発掘を行っていて、今年で10年目を迎える。当初は島の地図もないから、島の輪郭を描くことが最初の仕事。本当は閉合トラバースを組んで、島の周囲に基準点を落とすことからやればベストなんだけれど、こうはいかなかった。
 この調査は、もとはといえば西洋美術史の研究者たちが自分たちのフィールドを持ちたいと考えたところから始まる。けれど、教会やフレスコ画の様式分析はいいとして、フィールド調査といったら、一日の長といってはなんだけれど考古学の我々の方が慣れている。そこで、共同研究者として、考古学に白羽の矢がたったというわけ。だから、初期の数年間は、すぐに掘りたいという美術史班と、やるからにはきちっとした段取りでもって調査を進めるべきだという考古学班がよく対立した。ミーティングで、お互いの接点を模索しながら進めていたようなところがあった。結局、実際に地面を掘るという発掘を行ったのは、5年目からだったように記憶している。今年で10年目と書いたけれど、その前半は測量と分布調査に終始したことになる。
 で、島の輪郭だけれど、平板を移動していくことで対処した。地面は石ころだらけだから(建物の残骸と島の基盤層)、基準点はペンキでかく。それで、島を一周・・・こんな方法でも結構いい図ができたように思う。そうそう、基準点のペンキは数年で海風に洗われて消えてしまうから、たがねで岩盤に穴を掘り、セメントを流し込んでプラスのネジ釘を埋めるという作業ばかりしていた年もあった。とにかく、便利な器材がまったくない状況下において、でも、なんとかしなければならない。そんなことを鍛えられる現場だった(今でもそうだけれど・・・人骨取り上げも、日本だったら30年ほど前の方法かと思うくらい原始的なことをしているけれど、これについてはまたの機会に。)。
 この調査に参加してとてもプラスになっていることは、いろんな研究分野の方と話をする機会を持てたこと。美術史学会では、もう何年も前から、様式って本当に存在するの?ってことが議論されているわけだけれど、そんなことを食事しながら話したこともあった。考古学の様式論は、もとはといえば美術史からの借り物だから、このことは考古学にとっても大問題。建築史の方の図面の書き方や西洋史の方のものの見方からも学ぶことが多い。それから、海外での調査の経験・・・・・・この続きはまた今度・・・・・・

 さて、今回のナガラ原東貝塚の発掘。地味な作業が続くと思うけれど、気を抜かぬように、しっかりとやりましょう!



1999年夏・沖縄県伊江島ナガラ原東貝塚発掘パンフより

 僕は、大阪大学の地元の豊中市教育委員会が実施している発掘調査に参加していた。それは、前回書いた京都府のセンターの現場(1年生の夏休み)が終わって以来、助手として採用されるまで継続する。とくに学部生の頃は、大学での考古学の授業時間を除けば、豊中の現場で過ごすことがとても多かった。僕にとって、豊中の現場は、大学主催の現場と同じくらい重要な発掘道場の一つだった。

 忘れられない現場がある。考古学の専攻生としての僕が、行政の現場(緊急調査)に参加する上での心構え、といったものを強烈に教えられた現場だ。1年生の冬に参加した曽根遺跡の現場・・・。そこの指揮は、大阪大学の先輩が執られていた。
 大阪のような都会では、近所に農家のおじさんやおばさんがいないから、作業員さんを専門の派遣会社から雇用する。大学の考古学専攻生が調査補助員として図面を書いたりすることは熊本なんかと同じ。でも、豊中には強者がいた。
 今の豊中の現場もそうなんだけど、考古学の専攻生でもないのに、現場のプロのような人がうようよいた。夜はマンガを描きながら、あるいはライブハウスで演奏をしながら、あるいはプロカメラマンとしての仕事をしながら、それだけでは生活できないから発掘現場で生活費を稼ぐ、といったすごい連中がいっぱいいた。長い人は豊中の発掘現場で10年以上も働いているから、身分は単なるアルバイトであったとしても、ひと現場を指揮できるような人もいる。図面なんかも、とても早くてうまい。
 そういう中で、考古学を専攻しているものとして何をすべきなのか。土を見させても、遺構を検出させても、図面を書かせても、まだまだ僕はそれらの人にかなわない。考古学を専門としない人の方が、現場をやっていく上では役に立つ。これは、まがりなりにもプロの考古学者を目指す僕にとってはしんどいことだった。
 でも、決定的に違うことがひとつある。

  遺跡や遺構、遺物の意味を考えること。考えながら掘ること。これだ。

 その現場の調査員さん、つまり大学の先輩によくいわれたことなんだけれど、行政の現場に出れば給料がもらえていい収入になるけれど、それだけを目的にしてはいけない。調査員さんから指示されたとおりに掘るだけではなく、なぜ自分がそのように掘るのか、それをすれば何が明らかになるのか、といった意味を自分でよく考えながら掘る。1日の発掘が終わっても、それで作業が終わりということにはせず、その日の調査内容をよく吟味し翌日からの調査方針を予想する。こういうことに意識を向けることが、考古学の専攻生としての最低のつとめだ。
 こんなことを繰り返し繰り返し聞かされたなあ。
 その当時の僕は、この話の意味をよく理解できていなかったけれど 、発掘の技術がまったく未熟だった僕は、このことを自分が緊急調査に参加する上でのよりどころとした。そのささやかな実践のひとつとして、1日にやった作業を振り返る意味で、メモに毛の生えたようなものであったけれど調査日誌をつけるようにした。

 今回の南島発掘は、純粋な学術調査だ。だから、現場でまた夜にミーティングを必ず行うし、調査日誌をつけることはみなの義務だ。でも、これが単なる1日の日課であると思ってもらっては困る。それらを行っているのは、発掘の意味を考えるきっかけをみなに提供するためなんだ。これらを通して、先輩や仲間の意見をよく聞き、そして考えて欲しい。
 今日やった作業の意味は?
 どう掘ったら遺跡が雄弁に語ってくれるんだろう?
 ここを発掘する訳は?
 発掘って?
 それから、考古学を学ぶのはなぜ?

 こんなことをじっくり考える習慣がついたら、考古学者としての第1歩を踏み出すことができたといえるんじゃないかな。



1998年夏・沖縄県伊江島ナガラ原東貝塚発掘パンフより−熊大での初めての発掘−

 いよいよ発掘だ。僕にとっては熊本に来てはじめての発掘。ましてや沖縄。わくわくしないでいるなんてできやしない。
 2年生のみんなはどうだろう。今回が初めての発掘という人も多いんじゃないかな?
 どきどきしていませんか?

 僕のはじめての発掘体験は、大学1年生の夏。場所は京都府福知山市のずっと北。河守遺跡といったかな。発掘の主体は京都府のセンターで、そこにバイトというかたちで入ったんだ。ほぼ夏休みの全期間、そこで働かせてもらった。
 行政発掘だから、大学の調査とは違っていろんな人がいた。まず、地元の農家のおばちゃん。それから、全国各地からアルバイトに来ている大学生、そして高校生。そんなのが入り混じっての発掘。今から思うと、調査員の三好さんは大変だったろうなと思う。だって、まったく素人同然の僕たちを一から指導しなけりゃならなかったんだから・・・。
 はじめてやった作業はなんだったのか。よく覚えていない。たぶんガリかけか、大ドカか。でも、そこで教えてもらった平板測量は、今でも僕の測量の基礎となっている。

 今でも頭にこびりついている失敗。遺物を、図面も写真もとらずに取り上げてしまったこと。つまみ付の須恵器の蓋だった。いろんな遺物が出たはずだけど、その遺物だけは鮮明に覚えている。
 はじめての発掘の時って、遺物が出てきたら本当にうれしいんだ。で、やった!とばかり、思わず拾い上げてしまいたくなる。
 でも、発掘って、宝探しじゃないんだ。たんに遺物を見つけるために掘っているんじゃない。出土位置から動いてしまった遺物からは、それが本来持っていた情報の多くが逃げてしまう。
 調査員の三好さんは、私をひどくしからなかった。けれど、その須恵器を持って、じっと考え込んでいた三好さんの姿を忘れることはできない。

 この発掘は泊まりの現場だったから、そこでの生活は本当に楽しかった。夕食も地元の方がまかないに来て下さるから非常においしい。ビールも飲み放題。たまに、作業員として来て下さっている地元の方のお宅で夕食をごちそうになることもあった。
 この年は阪神タイガースが最強だった年で、夜ビールを飲みながらテレビをみることも楽しかった。そうそう、日航機墜落事故を知ったのも、この現場のテレビだった。
 近くで、有名な志高遺跡の調査もしていたから、三好さんの車に乗ってそこに遊びに行くこともしばしばだった。で、丹後地方の数現場が集まっての合同コンパ。僕たちの現場には若い女性がいなかったから、志高遺跡の現場にいる同年代の女の子としゃべることが楽しかった。

 次の年の夏、僕はこの発掘でもらったお金で中国旅行をしたんだ。

 2年生。発掘とはどのようなものなのか。今回十分に経験して下さい。楽しんで下さい。でも、僕がやったような失敗はしないように。
 3年生。君たちが発掘の中心になるのかな。指導する立場に立つことを十分に経験して下さい。これまでの経験を後輩たちに伝えてやって下さい。
 大学院生と研究生。発掘を総括する立場です。自分で体を動かすばかりでなく、"口で発掘する"ことも大切です。1つの作業に没頭するのではなく、調査全体を見渡して下さい。下級生の仕事を作ること、終わりを見据えた段取りなどなど、やることは山のようにありますが・・・
 僕の目標。何事もなく、みなが無事に熊本へ帰り着くことかな。