熊本県上天草市大矢野町域所在遺跡の分布調査
徒 然 な る ま ま に


2005年5月10日(火)

 追加です。

 今日、維和島の山崎さんから電話がありました。
 5月2日に新たに存在を確認し、「串古墳」と名付けた石棺ですが、地元の一部の方はその場所を「谷頭」と呼んでおられるそうです。

 現地でも言っていましたが、「串」という小字名だけを用いてその古墳を呼称すれば、「串」が指し示す範囲が広すぎるので、問題だなあと思っていました。そういう、私のつぶやきを聞いていた山崎さんが、現地の方に聞き取り調査を行って下さったのです。本当にありがたいことです。

 「串谷頭古墳」と呼称したほうがよさそうですね!


2005年5月3日(火)

桐ノ木尾ばね−草むしり 桐の木尾ばね−2つの石室
 調査の最終日です。

 維和島で確認すべき最後の古墳、桐ノ木尾ばね古墳へ、朝一に行きました。千崎古墳群のすぐ近くにある古墳です。
 2つの竪穴式石室が並列しているのですが、そのうち南側の石室は半壊していて、南側半分がありません。つまり南側壁のすべてと小口壁のほとんどが失われ、天井石はかろうじて木組みによって支えられている状態です。きわめて危険な状態・・・
 左の写真はその様子。写真の左側に写っているのが南側石室で、傾いた天井石とそれを支える木組みがわかりますでしょうか。
 右の写真は、写真撮影前の草むしりをする調査メンバー。もっとも左の方が山崎さん。我々の調査をずっと支援して下さっている地元の方です。

 現在知られている維和島の古墳はすべてチェックできました。しかし、海に突出している小さな岬をさらに丹念に歩けば、もっと古墳の存在が確認されるのではないか・・・このことを強く感じた今回の調査でした。
 一方、大矢野島の調査は不十分なままで終わりました。今一度、今度は大矢野島を中心に歩いてみる必要がありそうです。でも、いつできるだろうか・・・

 今日の最後に、そうした大矢野島にある一本松古墳へ行きました。ちょっとかわった箱式石棺ですが(詳細はまたいつか・・・)、熊本県の遺跡地図には記載されていません。遺跡地図発行以前に知られていたみたいですから、なぜ載っていないのだろう・・・ということはいいとしても、こうした古墳がまだまだ隠れていそうですね。

 最後の写真は、まず5日間お世話になった維和島蔵々(ぞうぞう)の町、港の様子。そして、帰り道で食べたチャンポン。えらい大盛りで、腹パンパン・・・

蔵々港 チャンポン


2005年5月2日(月)

 今日、甲元先生率いる縄文・弥生班は撤収。
 午前中の干潮をねらって遺跡の写真を撮るそうで、そのあと昼飯に"貝汁定食"を食べて帰途につくとのこと。今頃(夜の9時過ぎです)、学生さんは数日ぶりの1人の時間をすごしているのでしょうか?

 さて、我々古墳班は、これまで通り古墳の所在をチェック。

 まずは、維和島北西部、梅ノ木集落の方の案内で石が露出しているという標高約70mの山に登ったのですが、自然石であると判明。
 新規発見の古墳かと思ったのですが・・・でも、こうした地元の方の情報ってとても大切で、そうしたものがないと、とくに山の中に所在する古墳なんて簡単に見つかるものではありません。
 ですから、我々の調査活動に関心をもっていただき、日頃気になっていることを情報として教えていただけるという今の状況は、とてもありがたいものだと思っています。
 探索した山から下りたところでは、畑で作っておられるミカンをいただき、しばし休憩・・・

新規発見−串古墳
 午後からは、ようやく大矢野島まで足を伸ばしました。

 で、そこで、これまでの遺跡地図に記載されていない古墳の存在を確認しました。
 右の写真はその様子です。箱式石棺の蓋石が立った状態で置かれていています。
 写真でわかりますでしょうか。縦方向に凹状の溝が彫られているのですが、それは箱式石棺の長側石に接する部分で、こうした細工が施されることが天草の石棺の1つの特徴となっています。

 これは原位置を保っていないので、おそらくこの付近にあった箱式石棺の蓋石が運び込まれたものだと思われますが、しかしそんなに遠くから運んでくるとは思えないので、この近くに箱式石棺が存在する(した)ことはほぼ確実でしょう。
 そこで、地元の小字名をとって、これを串古墳と名付けました。

成田さん宅で休憩 成合津2号墳−前田さん
 今日の最後は、成合津(なろうづ)1・2号墳。

 1号墳は箱式石棺を内部に持つ竪穴式石室として全国的に著名ですが、熊本県の遺跡地図ではその位置が間違っていることが判明。まあ、熊本県の遺跡地図が間違っていることは珍しくはないのですが、有名な成合津古墳ぐらいきちんとして欲しいものです・・・

 成合津1・2号墳も、地元の方に案内していただいたのですが、見学終了後、その方のご自宅で休憩させていただきました。そこでいただいたミックスジュースのおいしかったこと!
 カステラやバナナ、ミカンもいただいて、皆、ほっと一息をついたのでした。

 さて、上の写真の左は、成合津2号墳−箱式石棺の内部を写真に撮ろうと頑張っている前田さん。うまく写ったのかな?
 写真の右は、ミックスジュースをいただきながら、カステラやバナナを頬張る学生さん。こうした地元の方との触れ合いも楽しいものですね・・・


2005年5月1日(日)

 今、午前9時前。大雨で今日の現場作業は中止です。

 宿舎でゆるゆるとしながらも、学生さんは採集資料の整理作業やカメラの手入れなどに精を出しています。資料を広げてパソコンに向かっている学生さんもいます。持ち込んだ論文や報告書を読んでいる学生さんもいます。思い思いに過ごす午前中となっています。

 私はといえば、昨日・一昨日にチェックした古墳にかんする所見を整理しています。そして、このホームページの作成作業。

遺物洗い 拓本

 上の写真の左は、雨が上がりかけてきた合間をねらっての遺物洗浄作業風景。宿舎の玄関先にある水道を使わせてもらっています。右の写真は、部屋での実測・拓本作業風景。皆、真剣です。

…‥・‥…

 11時になりました。小雨になってきたようです。昼食後、本渡、そして沖ノ原の製塩遺跡にまで足を伸ばして、資料館を見学する予定です。
 甲元先生は、一足先にバスで本渡へ向かわれました。福岡市の山崎さんと豊中市の柳本さんが来ておられるので、そこへの表敬訪問です。夕方お戻りになる予定です。

 さてさて、昼食の弁当を食べて、そろそろ出発の準備といきましょうか。

…‥・‥…

 古墳班は12時頃に出発。一路南へ。

 まずは本渡市立歴史民俗資料館を見学しました。展示のメインは妻ノ鼻古墳群出土遺物。鉄鏃や鉄刀・鉄剣、鉄鉾などの武器がとても充実しています。
妻ノ鼻古墳群
 妻ノ鼻古墳群に所在した石室は、調査後、別の場所に移設されて保存されていますが、資料館の見学後はそこを訪問。
 昨年度我々が調査した千崎5号墳の竪穴式石室にきわめて類似したものがあったり、いわゆる地下式板石積み石室のようなものがあったりと、かなりバラエティーに富んでいます。
 今一度、報告書を読み直して、詳しく検討すべきだと感じました。鉄鏃などを再実測して報告する作業も必要なのかもしれません。
 天草地域の古墳を考える上できわめて重要な遺跡であると、あらためて認識しました。

 左上の写真は、妻ノ鼻古墳群移設先で撮影したものです。ちょっと小さな石室(昨年、鹿児島県の長島で見学したものを思い出させるようなものでしたが・・・)の中に入っての写真です。

沖ノ原遺跡

 そのあと、通詞島へ行きました。五和町歴史民俗資料館。
 そこには、沖ノ原遺跡で検出された各種遺物が展示されています。縄文時代の遺物でも著名ですが、私にとっては、何といっても天草式製塩土器。
 その展示方法がきわめて斬新で、一度見たら忘れられない・・・詳しくは書きませんが、大量に出土するからこそできる展示です。ぜひ、見学して欲しいなあ・・・

 沖ノ原遺跡は通詞島の対岸、下島側の砂丘上にあります。
 左下の写真はその風景。海の向こうに見えるのが通詞島で、手前に写っている畑部分が沖ノ原遺跡です。

 何と、ここで、福岡市の山崎さんとイラストレーターの早川さんにバッタリ・・・
 我々が本渡方面へ来ていると甲元先生に聞いた山崎さんが探しに来たそうで、こんなところで会うなんて、私の行動パターンがピタリと読まれているなあ・・・と実感しました。

 その後、山崎さんのご実家におられた甲元先生をお迎えし、一緒に維和島まで戻ったのでした。
 途中、もちろん温泉へ立ち寄りました・・・今日は、リップルランドにある温泉でした。


2005年4月30日(土)

仙十長瀬古墳1号 北ケ島古墳
 今日、古墳班は維和島西海岸沿いの古墳の現状確認調査を行いました。

 朝一に、周囲360度の眺望という大観山頂上(標高142m)に登ったのですが、灌木が生い茂っていてほとんど見えず。数年前までは禿げ山だったらしいのですが、植物の生長はやはりものすごく、ブッシュをかき分け山頂にまで至ったのですが・・・ちょっと残念でした。

 維和島西海岸にはいくつもの小さな丘陵(岬)が突出していて、その多くの突端に古墳が存在しています。今日、そういった古墳の所在や現状を確認してまわったのですが、旧状を保っているものは大変少ないと感じました。

 写真の左はそういう古墳の1つです。一見石垣にしか見えませんが−−実際石垣なのですが−−ここにはかつて石室があったとの記録・写真が残されています。でも、現状では写真のような状態になっていて、おそらく石室が破壊され、石材が小さく割り砕かれて石垣用石材に転用された、といったところでしょうか。わずかに1つだけですが、石室石材を彷彿とさせる大きさの板石が散布していました。
 こうしたものを今記録に残しておかないと、近い将来、そこがなんだったのかわからなくなってしまいそうで、ですから今回やっている作業の価値の1つをそういったところにも見いだしています。

 写真の右は、蓋石が残っている箱式石棺について、各人の所見をメモしている時の様子です。学生さんが何を書いているのかわかりませんが、自分なりに気付いたことを野帳に書き込んでいるようです。

 今日は仕事を5時に切り上げ、温泉に行きました。大矢野町の中央、上天草警察署の裏側に昨年10月にできた新しい温泉施設「スパタラソ天草」。

 なかなかよかったですよ。新しい施設だけあって洗い場や内風呂も広く、もちろん露天風呂もあります。おそらく天気のいい日には、露天風呂から、島原湾に沈む夕陽をながめることができそうです。
 こういった雰囲気は、天水草枕温泉に近いと感じましたが、そこよりも洗い場が広いところは"マル"です。
 また、浴室内に洗面台があることも"えらい"と思いました。脱衣室にしか洗面台がない温泉施設が多いですが、浴室内にも洗面台がある方が便利だと思います。

 あと、ここの温泉施設に特徴的なのは、ソルトアイスでしょうか。
 塩味がきついのかなあと思って食べてみたのですが、よくわからなかったです。
 どこがソルトだったのかなあ?


2005年4月29日(金)

越路北古墳 上大戸古墳
 今日から天草の考古学遺跡分布調査の開始です。
 場所は上天草市の大矢野町域。
 上天草市史大矢野町編編纂委員会と熊本大学考古学研究室の合同調査です。

 昨年度、上天草市大矢野町域に所在する千崎古墳群・長砂連古墳・柳貝塚に関する考古学調査を行い、その成果を『上天草市史大矢野町編資料集1』として刊行しましたが、今回の調査はそれに続くものです。
 大矢野町域に分布する縄文・弥生遺跡の分布調査、さらに古墳の分布調査を行っています。前者は甲元先生の、後者は私の担当です。

 今日の朝8時半に大学へ集合し、10時過ぎ、上天草市へ到着しました。
 宿舎は維和島の蔵々にある虎屋さん・・・今年3月に卒業したばかりの学生さんにとっては懐かしいのではないでしょうか? どうですか?

 さて、今回の調査は上天草市大矢野町域にある遺跡の正確な位置の確認、そして現状の記録を目的としています。そして、今回の成果を、今年度作成予定の『資料集2』に反映させる予定でいます。
 ですから、遺跡(私の場合は古墳)の位置を確認するだけではなく、現状をよく表す写真の撮影を中心的な作業の1つに位置付けています。まあ、学生さんの写真撮影実習を兼ねているといってもいいのかもしれません・・・

 今日、私たち古墳班は大矢野町域の中でも維和島に所在する古墳を中心にチェックしていきました。島の南部から開始しましたから、当然、最初は広浦古墳。装飾をもつ古墳として著名です。現状は草ボウボウですが、今年の夏には現状の地形測量図や石室残骸の現状実測図を作成できればいいなあ、なんて思っています。
 今日は、維和島の東海岸に所在する古墳3つにも足を向けました。島の西海岸から尾根越えをするという、日頃運動をしていない私にとっては結構ハードな行程になりましたが、ついてきた学生さんはどうだったのでしょうか?

 甲元先生の縄文・弥生班は大矢野島の海岸沿いをドライブしながら、貝塚等遺跡の現状を調査。干潮をねらっての海岸での表採作業を行っていたようです。その成果は、夜の宿舎に持ち込まれ、石器や土器、そして各種の貝殻。現在生息している貝種と遺跡から出てくる貝種の比較のための標本とするそうです。

 さて、写真は、古墳班の今日の成果の一部です。
 左は「上大戸古墳」。石室の天井石と小口石の間から中をのぞき込む学生さんの様子です。石室は、小口石を縦置きにしていて、箱式石棺の名残をよく残しています。
 右は「越路北古墳」の箱式石棺の内部です。天草の箱式石棺の特徴をよく表していると思います。